サングラスの向こうの「タモリ」――ただのサラリーマンになるはずだった男が、昼の国民的風景になるまで
毎日昼の12時、テレビをつけると同じ場所に同じ顔がいる。サングラスをかけて、飄々と笑って、ゲストを泳がせ、誰かを安心させる。三十年以上にわたって続いたその光景は、もはや番組というより、日本の生活の一部、公共インフラに近いものだった。
その中心にいた男の本名は、森田一義。1945年8月22日、福岡市南区に生まれた。「タモリ」という名前を背負って国民的な存在になるまでの道のりは、本人がのちに語ったとおり、あと一歩で「ただのサラリーマンで終わっていた」かもしれない、危ういものだった。
これは、運と縁と、肩の力の抜けた一人の人間が、どうやって日本の昼を支える存在になったのかという物語である。
福岡の青年と、除籍された大学
森田一義は福岡市立西高宮小学校、高宮中学校、そして福岡県立筑紫丘高等学校を経て、1966年に早稲田大学第二文学部へ進学した。だが大学生活はまっすぐには進まなかった。学費を納められず、彼は最終的に除籍となる。エリートコースを歩むはずだった青年は、肩書きを失って世の中に放り出された格好になった。
しかし、この「まっすぐではない」道こそが、のちのタモリを形づくっていく。型にはまらない発想、インチキ外国語を即興でまくしたてる遊び心、四カ国語麻雀のような誰も思いつかない芸――それらは、優等生のレールの上では決して育たなかったものだった。
赤塚不二夫という恩人
転機は1975年に訪れた。ジャズピアニスト山下洋輔のトリオとの出会いを経て、森田の規格外の才能は人づてに広まっていく。その噂を聞きつけたのが、漫画家・赤塚不二夫だった。赤塚は彼を東京へ招き、自宅に住まわせ、世に出るための後押しをした。
同じ1975年、森田は「マンガ大行進!赤塚不二夫ショー」でテレビデビューを果たす。「タモリ」が誕生した瞬間だった。のちに赤塚不二夫の葬儀で読み上げた弔辞のなかで、タモリはこう語っている。「この人に会わなければ、私はただのサラリーマンで終わっていた」。飾らないその一言に、彼の人生を変えた縁の重みが凝縮されている。
昼の12時に、毎日同じ人がいる
1976年、テレビ東京「空飛ぶモンティ・パイソン」で初レギュラーを獲得。深夜ラジオ「タモリのオールナイトニッポン」でも独特の話芸を磨いた。そして1982年、ふたつの代表番組が同時に始まる。フジテレビ系「森田一義アワー 笑っていいとも!」と、テレビ朝日系「タモリ倶楽部」である。
とりわけ「笑っていいとも!」は、彼の名を不動のものにした。平日の昼、生放送のバラエティーを一人で司会し続けるという離れ業を、彼は実に32年間、8,054回にわたって成し遂げた。この記録はギネス世界記録(生放送バラエティー番組単独司会最多記録)として認定されている。番組が2014年に幕を下ろしたとき、多くの人が「昼の景色が変わってしまった」と感じた。
笑いだけではない、引き出しの数
タモリを「司会者」という一語でくくるのは難しい。1986年から続く音楽番組「ミュージックステーション」では、アーティストたちと軽妙にやりとりするホストの顔を見せ、1990年からの「世にも奇妙な物語」では、不気味で知的な語り部として別の魅力を放った。2002年の「トリビアの泉」では雑学を愛でる司会者として、2008年からのNHK「ブラタモリ」では、坂道や地形、地質を本気で楽しむ知の探究者として、新しい世代のファンを獲得した。
その背景には、常人離れした趣味と特技がある。ジャズの鑑賞と演奏、鉄道、料理、坂道研究、海外放送の受信、アマチュア無線、ダム、オーディオ。トランペットもピアノもこなし、インチキ外国語芸や四カ国語麻雀という誰もまねできない芸を持つ。彼の中には、テレビに映る何倍もの「引き出し」が静かに収まっている。
「反省するな」という哲学
これだけの実績を持ちながら、タモリには力みがない。彼が公言した言葉として知られるのが「反省するな」「やる気のあるものは去れ」だ。一見すると投げやりにも聞こえるが、そこには、過去にとらわれず、肩肘張らずに今を楽しむという一貫した姿勢がにじんでいる。
司会者としての彼は、決して前に出すぎない。ゲストをふわりと泳がせ、その人が一番いい表情を見せる瞬間を待つ。あの絶妙な「間」は、言葉で説明するほど簡単なものではない。出しゃばらずに場を成立させる技術は、肩の力を抜いた哲学と表裏一体なのだ。
1988年の新語・流行語大賞特別賞に始まり、伊丹十三賞、ギャラクシー賞、そして2014年の菊池寛賞まで、その功績は数々の賞に刻まれている。だが、タモリの本当の偉大さは、賞よりもむしろ、毎日同じ場所で笑っていてくれたという安心感にあるのかもしれない。
大学を除籍され、ただのサラリーマンになるはずだった福岡の青年は、運と縁と、そして肩の力の抜けた生き方によって、日本の昼そのものになった。サングラスの向こうで飄々と笑うあの姿は、これからも「こういう大人になりたい」と思わせ続けるはずだ。