全力でアホになり、静かに人を安心させる――内村光良という「受け止める才能」
熊本県球磨郡、いまのあさぎり町。緑深い山あいの町に生まれた一人の少年が、やがて日本中の年の瀬を見守る存在になるとは、本人すら想像していなかっただろう。コントでは誰よりも全力でバカになり、司会に回れば現場の全員を不思議なほど安心させる。その途方もないギャップこそが、内村光良という人の核にある。
お笑いタレント、司会者、俳優、そして映画監督。肩書きを並べるだけでは、この人の輪郭はつかめない。笑わせるだけかと思えば泣かせにかかり、暴れる後輩を最後はすべて受け止めて笑いに着地させる。約40年にわたって第一線に立ち続けてきた「ウッチャン」の歩みを、ここでたどってみたい。
山あいの町から、漫才の授業へ
内村光良は1964年7月22日、熊本県球磨郡上村に生まれた。免田町立免田小学校に通い、のちに人吉市立西瀬小学校へ転校。人吉市立第二中学校、熊本県立人吉高等学校を経て、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)の演劇科へと進む。
人生の転機は、その専門学院の漫才の授業にあった。講師を務めていたのは、漫才師・内海好江。彼女が内村の素質を見抜き、デビューを薦めたのである。山あいの町から出てきた青年に、プロの世界への扉を開いたのは、一人の漫才師の確かな眼だった。
ウッチャンナンチャン、結成
1985年、内村は同じ学院で出会った南原清隆とお笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」を結成し、マセキ芸能社からデビューする。同年、日本テレビの『お笑いスター誕生!!』でテレビデビューを果たした。
1990年の『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』、そして1996年の『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』。二人の名を冠したバラエティ番組は次々とお茶の間を沸かせ、コンビは一躍時代の顔となっていく。とりわけコント番組での全力の体当たりは、後の世代にまで語り継がれるほどの輝きを放った。
俳優、そしてミリオンヒット
笑いの人は、笑いだけにとどまらなかった。1992年、映画『七人のおたく』で主演を務め俳優デビュー。この作品で翌1993年、第16回日本アカデミー賞の新人俳優賞、そして話題賞・俳優部門をダブル受賞する。コメディアンの枠を軽やかに越えてみせたのだ。
さらに音楽でも結果を残す。1995年、『ウリナリ!!』の企画から生まれた音楽ユニット「ポケットビスケッツ」では、キーボードを担当し作詞作曲も手がけた。1996年の『YELLOW YELLOW HAPPY』は大ヒットを記録。番組発のユニットが本物のヒット曲を生み出すという、当時としては鮮烈な現象を起こした。
メガホンを握る――映画監督・内村光良
2006年、内村は映画『ピーナッツ』で監督・脚本を手がけ、映画監督としてデビューする。2013年には監督第2作『ボクたちの交換日記』を、2016年には監督・脚本・主演をすべてこなした『金メダル男』を発表した。
笑わせる人が、こんどは観客を泣かせにかかる。コントで培った人間への観察眼を、内村はそのままスクリーンの物語へと注ぎ込んだ。一体この人は何屋なのか――そんなツッコミを誘うほどの多才ぶりは、しかし一貫して「人を描く」という一点に貫かれている。
年の瀬の顔、そして受け止める器
2007年に始まった『世界の果てまでイッテQ!』では、体を張って暴れる後輩たちを、最後は内村がすべて受け止めて笑いに着地させてきた。混沌とした現場を温かくまとめあげるその姿は、長寿番組の屋台骨そのものだ。2024年に至るまで、その司会は続いている。
2017年からは、NHK紅白歌合戦の総合司会に就任。2020年まで4年連続でこの大役を務め上げた。生放送の大舞台で胃が痛くなりそうな緊張のなか、それでも内村は終始にこやかだった。2012年には『内村さまぁ〜ず』のDVD年間リリース本数でギネス世界記録に認定され、2019年には故郷から人吉市民栄誉賞を贈られている。
コントでは全力のアホ、司会では全員を安心させる優しさ。そのギャップこそが内村光良という人の魅力であり、計算では決して生み出せない器の大きさの証だ。2005年に元テレビ朝日アナウンサーの徳永有美と結婚し、二人の子を持つ家庭人でもある。
笑わせ、泣かせ、そして受け止める。約40年、第一線で笑いと向き合い続けてきたこの人がいるから、お笑いはどこか温かい。山あいの町から出てきた青年は、いまも日本のお茶の間のまんなかで、静かに笑っている。