コートの女王、声を上げる――大坂なおみが世界に教えた「強さ」のかたち

時速200キロを超えるサーブが、ニューヨークの夜空を切り裂く。観客がどよめき、対面に立つ強敵が一歩、また一歩と後ろに下がっていく。コートの上の大坂なおみは、まぎれもなく猛獣だ。
だがマイクを向けられた瞬間、その猛獣はくしゃりと表情を崩し、はにかんだ笑顔を見せる。言葉に詰まり、照れて、ときどき自分の冗談に自分で笑う。この落差――盤上の支配者と、等身大の若い女性の落差こそが、世界中の人々の心をつかんで離さなかった。
大阪に生まれ、アメリカで育ち、日本人初のグランドスラム王者となった彼女は、勝利だけでなく「弱さを口にする勇気」もまた、世界に手渡した。これはその物語である。
大阪に生まれ、フロリダのコートで育つ
1997年10月16日、大坂なおみは大阪府大阪市中央区に生まれた。父はハイチ系アメリカ人、母は北海道根室市出身の日本人。3歳のとき家族はアメリカ・ニューヨーク州へ移り、やがて温暖なフロリダ州ペンブロークパインズへと拠点を移す。
テニスの最初の指導者は、ほかでもない父だった。専門のコーチをつける余裕がなかった一家は、独学と工夫でラケットを握り続けた。姉の大坂まりとともに、来る日も来る日もコートに立つ。2008年、まだ10歳のときにヨネックスとスポンサー契約を結び、才能の片鱗を世界に示し始めた。
恵まれた環境からではなく、家族の手づくりの努力から始まったキャリア。その出発点は、後の彼女の飾らない人柄と無縁ではないだろう。
セリーナを超えた夜――2018年、全米オープン
2016年、ツアーで頭角を現した大坂はWTA最優秀新人賞を日本人として初めて受賞する。だが世界がその名を本当に知ったのは、2018年9月のニューヨークだった。
全米オープン決勝。相手は、彼女が幼い頃から憧れ続けた絶対王者セリーナ・ウィリアムズ。聖地アーサー・アッシュ・スタジアムの大観衆は明らかにセリーナを後押ししていた。それでも大坂は一歩も引かず、堂々たる力で勝ち切る。日本人として初めてのグランドスラム・シングルス制覇だった。
憧れの存在を破って頂点に立つ――物語としてこれ以上劇的な舞台はない。翌2019年には全豪オープンを制し、アジア人として史上初めて世界ランキング1位に到達。彼女はもはや「期待の新星」ではなく、時代を背負う女王になっていた。
マスクに刻んだ名前――沈黙を破るアスリート
2020年の全米オープン。大坂は再び優勝を手にするが、この大会で世界が記憶したのはスコアだけではない。
彼女は7試合それぞれで、人種差別の犠牲となった黒人たちの名前を記したマスクを着けてコートに現れた。試合に勝つたびに、また一つ名前が世界に届く。ブラック・ライブズ・マター運動への、静かで、しかし揺るぎない意思表示だった。
勝つことに集中すべきアスリートが、あえてリスクを取って社会に声を上げる。賛否は当然あった。それでも彼女は引かなかった。コートの内と外、その両方で「自分の信じることのために立つ」姿勢を、彼女は身をもって示したのである。
「しんどい」と言ってもいい――心を守る決断
2021年、全豪オープンを制してグランドスラム4勝目を挙げた大坂に、世界はさらなる栄光を期待した。しかし同年の全仏オープンで、彼女は予想もしない決断を下す。試合後の記者会見を拒否し、そして大会を棄権したのだ。
理由は、自身の抱える不安とうつ。彼女は包み隠さず自らのメンタルヘルスの問題を公表した。トップアスリートが「心が限界だ」と公に認める――それは長くタブーとされてきたことだった。彼女の告白は世界中に波紋を広げ、スポーツ界全体が選手の心の健康を真剣に語り始めるきっかけとなった。
同じ年、東京2020オリンピックでは聖火の最終ランナーを務めた。光を掲げるその姿は、強さと繊細さを同時に体現する、まさに彼女らしい象徴だった。
等身大の女王――アニメも、カツカレーも、新しい人生も
コートを離れた大坂なおみは、驚くほど親しみやすい。アニメや漫画をこよなく愛し、スカイリムのようなゲームに没頭し、一眼レフを手に写真を撮る。好物に挙げるのは大トロのお寿司、カツ丼、カツカレー、そして抹茶アイス――どこまでも飾らない。
2023年には妊娠を発表してツアーを離れ、7月に第一子となる娘シャイを出産。母となった彼女は、2024年、約1年3か月ぶりにブリスベン国際でコートへと帰ってきた。新しい役割を背負いながら、なお戦い続ける道を選んだのだ。
ナイキ、日清食品、資生堂、全日空――数々の企業が彼女と手を組むのは、その実力だけでなく、まっすぐな人柄ゆえだろう。
大坂なおみが世界に残したものは、4つのグランドスラムタイトルと、アジア人初の世界1位という記録だけではない。「弱さを口にすることは、敗北ではない」という新しい価値観そのものだ。
強く、そして優しい。猛獣のようなサーブを打ち、はにかんで笑い、ときに勇気を出して声を上げる。完璧ではないからこそ、人々は彼女に自分を重ねる。これからも自分のペースで、無理をせず光り続けてほしい――そう願わずにはいられない一人の女王の物語である。