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21歳で頂点を降りた人——山口百恵が武道館に置いてきたもの

人気絶頂の真ん中で、自ら芸能界を去る。それも、まだ21歳で。1980年10月15日、日本武道館。「さよならの向こう側」を歌い終えた山口百恵は、マイクをそっとステージに置き、振り返ることなく去っていった。

その一場面は、いまも伝説として語り継がれている。未練を断ち切れずズルズルと続けてしまうのが人間というものだ。だが彼女は、誰もがまだ「もっと」と求めている、まさにその瞬間に、静かに頂上から降りてみせた。

14歳でデビューし、21歳で引退。わずか7年。しかしその短い期間に、彼女は歌でも芝居でも頂点に立ち、そして自らの意志で幕を引いた。山口百恵の生き様そのものが、一本の映画のようだ。

横須賀で育った少女、「スター誕生!」へ

山口百恵は1959年1月17日、東京都渋谷区恵比寿に生まれ、その後神奈川県横須賀市で育った。横須賀市立不入斗中学校に通う、ごく普通の少女だった。

転機は1972年、オーディション番組「スター誕生!」での準優勝である。これをきっかけにホリプロダクションに所属。翌1973年、シングル「としごろ」で14歳の歌手デビューを果たす。同年にはテレビドラマ「顔で笑って」にも出演し、歌手と女優、二つの道を同時に歩み始めた。

CBSソニーのプロデューサー・酒井政利に導かれながら、横須賀で育った少女は、瞬く間に時代の中心へと駆け上がっていく。

三浦友和との「赤いシリーズ」

1974年、映画「伊豆の踊子」で踊り子・かおる役を演じ、映画初主演を飾る。この作品で初共演したのが俳優・三浦友和だった。二人はその後、映画12作にドラマ複数作と、何度も画面の中で寄り添うことになる。

決定的だったのが、1975年のTBSドラマ「赤い疑惑」だ。三浦友和との共演で視聴率記録を樹立し、いわゆる「赤いシリーズ」は茶の間を釘付けにした。彼女の演技は、お茶の間を総じて涙させる力を持っていた。

歌も芝居も、彼女の手にかかれば人の心をぐっと掴んだ。1974年には「ひと夏の経験」で日本レコード大賞の大衆賞を、1977年には「秋桜」で歌唱賞を受賞。歌手としての評価も着実に積み上げていった。

凄みのある低音、トリを務めた18歳

山口百恵の歌声は、アイドルらしい甘さとは少し違っていた。低く、凄みのある声で、聴く者の心にぐっと迫ってくる。「横須賀ストーリー」「プレイバック Part2」「しなやかに歌って」——彼女が歌うと、ただのヒット曲が一段深い表情を帯びた。

1978年、彼女は第29回NHK紅白歌合戦で紅組のトリを務める。10代でこの大役を任されるのは最年少記録だった。デビューからわずか5年、19歳の少女が日本最大の音楽番組の締めを担う。その存在感が、彼女の格を物語っている。

1979年には「しなやかに歌って」で日本レコード大賞の金賞を受賞。歌でも芝居でも、彼女はもはや疑いようのない第一人者となっていた。

そして、マイクを置いた

1980年、山口百恵は三浦友和との婚約を発表すると同時に、芸能界からの引退を表明する。10月15日、日本武道館での「さよならコンサート」。最後に「さよならの向こう側」を歌い終えた彼女は、マイクをステージにそっと置いた。それは、すべての名声を静かに手放す所作だった。

同年、自叙伝「蒼い時」を出版。これが340万部という空前のベストセラーとなる。そして三浦友和と結婚し、二人の息子——長男・三浦祐太朗、次男・三浦貴大——をもうけた。

引退後の彼女は、きっぱりと表舞台から姿を消した。1987年からは独学でキルト製作を始め、家庭とものづくりに人生を注いでいく。2019年には、本名の三浦百恵名義でキルト作品集を日本ヴォーグ社から出版している。スターとしてではなく、一人の生活者として歩む、まったく別の人生だった。

いちばんカッコいいのは、頂上で満足して、静かに降りられる人かもしれない。山口百恵は、それを14歳でデビューして21歳でやってのけた。

人気絶頂で去り、その後の長い人生を家庭とキルトに静かに捧げる。その潔さ、その一貫した生き方こそが、彼女を単なる昭和のアイドルではなく、本物の「伝説」にした。武道館に置いてきたマイクの先に、彼女は何より自由な自分の人生を選び取ったのだ。