国民的美少女の元祖——後藤久美子が選んだ、静かに舞台を降りる勇気

昭和という時代が終わりに近づいたころ、テレビをつければそこに、雑誌を開けばそこに、ひとりの少女がいた。後藤久美子。「国民的美少女」という言葉がまだ手垢のついていない、まっさらな称号だった時代に、その言葉そのものを背負った人である。
1974年3月26日、東京都杉並区に生まれた彼女は、十代の前半ですでに完成された存在だった。スクリーンの中で笑い、歌い、立っているだけで一枚の絵になる。同世代の少女たちが憧れ、大人たちが目を細めた。その輝きは、一過性のブームではなく、ひとつの時代の顔として記憶に刻まれていく。
だが彼女の物語が本当に語られるべきは、その輝きの絶頂で見せた、もうひとつの選択にある。
まっさらな称号を背負った少女
後藤久美子が芸能界に現れたとき、彼女の美しさはまだ誰も使い古していない言葉を必要としていた。やがて「国民的美少女」という呼び名が定着していくが、それは彼女のために生まれたかのような響きを持っていた。
杉並区に生まれ、多摩大学附属聖ヶ丘高等学校に学んだ彼女は、俳優として、歌手として、モデルとして、複数の顔を同時に持っていた。十代の少女がこれほど多くの場所で必要とされること自体が、彼女の存在の大きさを物語っている。テレビの中の彼女は、どの瞬間を切り取っても、すでに「美少女」という概念の体現だった。
早すぎる完成、確かな評価
1988年、後藤久美子はエランドール賞の新人賞と、日刊スポーツ映画大賞の新人賞を受賞する。話題性だけで持ち上げられた存在ではなく、演じ手としての評価をきちんと得ていたことが、この二つの賞からうかがえる。後年にはゴールデン・アロー賞も受けている。
子どものころから人々の視線を浴び続け、それでいて評価まで手にしてしまう。普通なら危ういはずのその速度で、彼女は確かな足取りを刻んでいった。まだ少女と呼ばれる年齢で、すでに一人前の表現者として認められていたのである。
スクリーンに残した三つの顔
代表作として語られる作品は、彼女の振れ幅をそのまま映している。国民的シリーズである「男はつらいよ」に出演し、日本中が知るあの世界の一部となった。テレビドラマ「ママはアイドル」では、人気者としての魅力を存分に発揮した。そしてNHKの大河ドラマ「太平記」では、歴史の重厚な物語の中に立った。
軽やかなアイドル性と、歴史劇に耐えうる存在感。その両方を同じ時期に求められ、応えていたことが、彼女の俳優としての底の深さを示している。スクリーンに残された三つの顔は、それぞれ違う表情でありながら、どれも紛れもなく後藤久美子だった。
頂点で、舞台を降りるということ
彼女の人生でもっとも語り継がれているのは、おそらく作品そのものではない。芸能界で天下を取れる位置にいながら、ある日、静かに表舞台から距離を置き、海の向こうで自分の暮らしを選んだことだ。
人気にしがみつかない。長い別れの言葉も、引き止められての復帰劇もない。ただ自分の人生を、自分の手で歩いていく。その潔さは、栄光のただ中にいた人だからこそ、いっそう際立つ。多くの人が手放せないものを、彼女はためらいなく置いていった。
昭和の終わりに「美少女」という言葉が誰かの顔を必要としたとき、その顔は後藤久美子だった。それだけでも十分に語り継がれる理由になる。
けれど彼女が本当に見せてくれたのは、輝きそのものより、その輝きとの付き合い方だったのかもしれない。頂点で潔く身を引き、誰にも惑わされず自分の人生を選ぶ。その後ろ姿は、今なお少しまぶしい。