「だいじょうぶだぁ」と言われたら、本当に大丈夫な気がした——志村けんという安心
笑いには寿命がある、とよく言われる。流行語は古びるし、ギャグは色褪せる。だが、志村けんが残した笑いだけは、いまだに古びない。バカ殿のメイクを目にしただけで反射的に頬がゆるみ、「アイ〜ン」と聞けば誰もが顔の作り方を知っている。それは、二世代どころか三世代の日本人が共有する、ごく自然な身体の記憶だ。
東京・東村山に生まれ、ザ・ドリフターズの末弟として頭角を現し、やがて国民的コメディアンになった男。その七十年の生涯は、笑いという目に見えないものに、ただひたすら命を注ぎ込んだ職人の記録でもある。
付き人から始まった、笑いへの長い道
1950年、志村康徳は東京都北多摩郡東村山町に生まれた。兄が二人いる三人兄弟の末っ子である。少年期からビートルズに夢中になり、音楽とコメディに惹かれていく。
転機は1968年。彼はいかりや長介の自宅を訪ね、ザ・ドリフターズのボーヤ(付き人)になった。スターの卵としてではなく、雑用係としての出発である。1972年には井山淳とお笑いコンビ「マックボンボン」を組んでデビューするが、すぐに大きく花開いたわけではない。芸の世界に入って正式にドリフのメンバーとなったのは1974年、すでに二十代半ばを過ぎていた。決して早咲きではなかった。
「東村山音頭」と、お茶の間の真ん中へ
ドリフに加入してまもなく、志村けんは自分の名を世に刻む。1976年、自身の故郷をネタにした「東村山音頭」がヒットしたのだ。ご当地の盆踊り歌を、奇妙で愛嬌のある芸に仕立て直したこの一曲で、彼は一気に注目を集めた。
舞台は『8時だョ!全員集合』。土曜夜のお茶の間を独占したこの伝説的番組で、彼はただ笑わせるだけの存在ではなくなっていく。ヒゲダンス、変なおじさん、カラスの勝手でしょ——次々と生まれる持ちネタは、子どもが翌日学校で真似をするほど浸透した。笑いが文化として広がっていく、その震源地に彼はいた。
自分の城を築いた人
1986年に『志村けんのバカ殿様』、翌1987年には『志村けんのだいじょうぶだぁ』が始まる。注目すべきは、彼がこれらの番組で主演であると同時に制作にも深く関わっていた点だ。与えられた役を演じるのではなく、自分の笑いの世界を自分の手で組み立てる——彼はそういう作り手だった。
「アイ〜ン」も「だいじょうぶだぁ」も、計算され、稽古を重ねて磨き上げられたものだ。アホみたいに見える芸ほど、裏では誰よりもネタを練り込む。陽気な顔の奥にいたのは、笑いに一切の妥協を許さない職人だった。
笑いの外側にあったもの
1999年、彼は映画『鉄道員(ぽっぽや)』に炭鉱夫役で出演し、同年ゴールデン・アロー賞芸能賞を受賞する。2004年に始まった『天才!志村どうぶつ園』では司会を務め、動物と子どもに向けたやわらかな表情で、また新しい世代のファンをつかんだ。
私生活では生涯独身を貫いた。妻も子もなく、ただ笑いひと筋に生きた人生は、見方を変えればこの上なく潔い。趣味は若い頃から変わらずビートルズ、とりわけジョン・レノンを敬愛し、バンド演奏を愛した。派手な浮き沈みの噂とは無縁の、芸に集中した静かな人だった。
突然の別れ
2020年3月29日、志村けんは新型コロナウイルス感染症による肺炎のため、七十歳でこの世を去った。日本でこの病の恐ろしさがまだ十分に実感されていなかった時期に、誰もが知る国民的存在が逝ったことの衝撃は大きかった。
同年、第37回浅草芸能大賞特別功労賞と第36回ATP賞テレビグランプリ特別賞が彼に贈られた。半世紀にわたって日本中を笑わせ続けた功績への、惜別を込めた賛辞だった。
「だいじょうぶだぁ」——あの一言を聞くと、理由もなく本当に大丈夫な気がしてくる。それこそが志村けんの最大の才能だったのかもしれない。彼が積み上げたのは、ただのギャグの集積ではなく、見る人を一瞬で安心させる空気そのものだった。
バカ殿のメイクを見れば、今でも反射でニヤけてしまう。古びない笑いを残していった、罪な人である。