燃え尽きるために生きた男――松田優作、40年の疾走
画面に現れた瞬間、空気が変わる。そういう俳優は滅多にいない。松田優作は、まさにそのひとりだった。1949年、山口県下関市に生まれた彼は、1973年にテレビドラマ「太陽にほえろ!」のジーパン刑事として世に出ると、たちまち時代の熱を体現する存在になった。
183センチの長身、鋭い眼差し、そして役のためなら身体を壊すことも厭わない凄まじい没入。彼の俳優人生はわずか16年。だが、その密度はあまりに濃く、死してなお語り継がれている。これは、燃え尽きることを恐れなかった一人の表現者の物語である。
「なんじゃこりゃあ!」――伝説の始まり
松田優作の名を一気に世に知らしめたのは、1973年の「太陽にほえろ!」だった。プロデューサー岡田晋吉に推薦・抜擢され、彼が演じたのはジーパン刑事こと柴田純。型破りな若手刑事として人気を博したが、何より人々の記憶に焼きついたのは、その殉職シーンである。
撃たれて倒れ込み、自らの腹を見て絞り出すように叫んだ「なんじゃこりゃあ!」。このひと言は、日本テレビ史に残る名ゼリフとなった。観る者の胸ぐらを掴むようなあの迫真の演技は、まだ駆け出しだった松田優作という俳優の底知れぬ可能性を、誰の目にも明らかにした。
文学座から映画スターへ
松田優作の道のりは平坦ではなかった。豊南高等学校の夜間部を卒業し、関東学院大学文学部を中退。1973年に文学座附属演劇研究所を修了して、本格的に俳優の道へと踏み出した。
テレビでの成功のあと、彼は映画へと活躍の場を広げていく。1977年の「人間の証明」、そして1979年の「蘇える金狼」では朝倉哲也を演じ、アクションスターとしての地位を確立した。翌1980年の「野獣死すべし」では伊達邦彦役のために頬の肉を削ぎ落とし、痩せ細った狂気の表情を作り上げた。役に己の肉体ごと差し出す――それが松田優作の流儀だった。
一年で見せた二つの顔――1983年
俳優・松田優作の引き出しの多さが頂点に達したのが1983年である。この年、彼は映画「探偵物語」と「家族ゲーム」の二作で、まったく異なる二つの顔を見せた。
「探偵物語」では、ふらりと歩くダンディな私立探偵・工藤俊作を飄々と演じ、独特の色気を放った。一方「家族ゲーム」では、家庭に入り込む妙にネチネチとした不気味な家庭教師を演じきった。クールな二枚目から不穏なキャラクターまで、その振れ幅は驚くほど広い。この二作の評価により、彼はキネマ旬報主演男優賞と報知映画賞主演男優賞を同時に受賞した。
文芸への挑戦と、ハリウッドへの最後の賭け
アクションスターという枠に収まらないのも松田優作だった。1985年、森田芳光監督の「それから」で夏目漱石原作の主人公・長井代助を演じ、文芸作品の世界にも深く踏み込んだ。静謐な内面の演技は、彼の俳優としての幅をさらに押し広げた。
そして1989年、リドリー・スコット監督のハリウッド映画「ブラック・レイン」に佐藤浩という悪役で出演する。これは彼にとって世界への殴り込みだった。しかしこのとき、彼の身体はすでに膀胱癌に蝕まれていた。治療よりも役を選び、病を押して撮影に臨んだのである。
40歳での退場、そして不滅の伝説
「ブラック・レイン」の公開と同じ1989年11月6日、松田優作は膀胱癌の腰部転移により息を引き取った。享年40。あまりにも早すぎる退場だった。
翌1990年、第13回日本アカデミー賞特別賞とヨコハマ映画祭審査員特別賞が没後に授与された。彼が遺したものは作品だけではない。長男・松田龍平、次男・松田翔太、長女・松田ゆう姫と、三人の子もまた表現の世界へと進み、その血脈は今も生き続けている。
普通の二枚目で終わることもできたはずだ。だが松田優作は、わざわざ身体を削り、病を押してまで役に己を投じ続けた。不器用なほどに真っ直ぐで、だからこそ忘れがたい。
早すぎる退場だったが、没後30年以上を経てなお、その名は色褪せない。語り継がれているという事実こそが、彼の生き様の証である。燃え尽きるために生きた男――松田優作は、確かに勝ったのだ。