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巻き舌の魔法使い──桑田佳祐が日本の夏に住みついた理由

夏が来るたびに、ふっと口をついて出るメロディがある。海辺のカフェ、花火帰りの夜道、冷房の効いた電車のなか。そのどこかに、桑田佳祐の声はもう溶け込んでしまっている。意識して聴いているわけではないのに、いつのまにかそこにある。それくらい彼の音楽は、日本人の生活の地面に深く根を張っている。

茅ヶ崎の海辺で育った一人の青年が、国民的バンドの顔になり、やがて日本のポップスそのものの輪郭を描き変えてしまった。なぜここまで長く、ここまで深く愛されるのか。その答えを探して、彼が歩いてきた40年あまりの道をたどってみたい。

茅ヶ崎の海が育てたもの

桑田佳祐は1956年2月26日、神奈川県茅ヶ崎市に生まれた。海と空がすぐそこにある土地で過ごした少年時代は、のちの彼の音楽世界に色濃く影を落としている。湘南の開放感、夏の眩しさ、そしてどこか切ない海辺の情景。それらは彼の代表曲のいたるところで、いまも息をしている。

茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校、同第一中学校、鎌倉学園高等学校を経て、青山学院大学経営学部へ進んだ。けれど彼の青春の中心にあったのは経営学ではなく、まぎれもなく音楽だった。

「勝手にシンドバッド」という事件

大学在学中にバンドを組んだ桑田は、1978年、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」でレコードデビューを果たす。早口でまくしたてるような歌い方、何を歌っているのか聞き取れないほどの言葉の洪水。それは当時の歌謡曲の常識を真正面から壊しにいく、まったく新しい何かだった。

翌1979年には「いとしのエリー」が大ヒット。ふざけた曲をひとつ放り込んだ次の瞬間に、心をえぐるようなバラードを差し出す。この振れ幅の大きさこそが、サザンオールスターズという存在の正体であり、作家・桑田佳祐の底知れなさだった。

ソロとサザン、二つの顔

1987年、桑田は「悲しい気持ち」でソロデビューする。バンドの顔としての自分とは別の表現を求めて、彼はソロという場でも歩みを進めた。1994年のアルバム『孤独の太陽』、2001年の「白い恋人達」など、ソロでもヒットと評価を重ねていく。

そして2000年、サザンオールスターズの「TSUNAMI」が約293万枚という途方もないセールスを記録し、第42回日本レコード大賞の大賞を受賞する。油断していた聴き手を、まっすぐなバラードで不意打ちする──その魔法は、デビューから20年以上を経てなお少しも錆びついていなかった。

病を越えて、また暴れる

2010年、桑田は食道がんの手術を受ける。多くのファンが息をのんで案じるなか、彼は同年12月のNHK紅白歌合戦にスペシャルゲストとして姿を見せ、その復活に大きな反響が起きた。

大病を乗り越えてもなお、ステージで暴れ続ける姿は、ロックという言葉の本来の意味をそのまま体現していた。2013年にはサザンオールスターズが活動を再開し、彼は変わらぬエネルギーで、相変わらず日本の夏を引っ張り続けている。

そのうちなんとかなるだろう

桑田が座右の銘として公言するのは、喜劇人・植木等にまつわる「そのうちなんとかなるだろう」という言葉だ。肩の力を抜いていて、それでいて前を向いているこの一言は、彼の音楽そのものの姿勢にもどこか通じている。

2014年には紫綬褒章を受章。妻はサザンオールスターズのメンバーでもある原由子で、1982年に結婚して以来、公私にわたる長年のパートナーであり続けている。バンドという家族と、本当の家族とが、同じ場所で重なっている稀有な人生だ。

巻き舌で何を歌っているか分からないのに、メロディと色気だけは一発で伝わってくる。考えてみれば、それはほとんど超能力のようなものかもしれない。日本のポップスの土台の、その半分くらいはこの人が作ったのではないか──本気でそう思わせてしまう存在だ。

茅ヶ崎の海のように、ずっとそこにあって当たり前になっている偉大さ。桑田佳祐の足跡をもう少し詳しくたどりたくなったら、celeb-db のプロフィールページで彼の経歴やディスコグラフィをじっくり確かめてほしい。