celeb-db
English

媚びない美学――椎名林檎が築き上げた、たった一人の王国

椎名林檎(シンガーソングライター・ロック)の写真

1998年、シングル「幸福論」で世に出た一人の女性が、日本の音楽シーンの空気を変えた。本名・椎名裕美子。ステージネームは椎名林檎。デビューしたての頃、まだ二十歳そこそこだった彼女は、巻き舌を効かせて「歌舞伎町の女王」を歌い、夜の街と女の業を堂々と描いてみせた。

その姿には、世間に媚びる気配が一切なかった。可愛らしさも、色気も、知性も、そしてどこか狂気じみた強さも、すべてを自分の美学の中に閉じ込めて差し出す。等身大というよりは、はじめから完成された一個の世界として、椎名林檎は現れた。

そして二十数年が経ったいま、彼女は「歌う人」という枠をとうに超え、楽曲も衣装も世界観もすべてを自らの手で握る、ただ一人の表現者として立っている。

浦和、清水、福岡――根を張らずに育った少女

椎名林檎は1978年11月25日、埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)に生まれた。幼少期は静岡県清水市で過ごし、小学6年生のときに福岡市へ転居している。一か所に長く根を張るのではなく、土地を移りながら育った少女時代だった。

福岡では百道中学校に進み、福岡県立筑前高等学校へ。だが1996年、彼女は高校を中退する。理由は単純で、音楽活動に専念するためだった。大学へは進まなかった。学校の枠よりも先に、自分のやりたいことが見えていた人だったのだろう。

弟は歌手の椎名純平。音楽は、この姉弟にとって早くから身近なものだった。

「無罪モラトリアム」――衝撃のデビューアルバム

1998年のメジャーデビューを経て、1999年に放たれた1stアルバム「無罪モラトリアム」は、日本のロックシーンに鮮烈な印象を刻んだ。「歌舞伎町の女王」「ここでキスして。」がヒットし、続く「本能」「丸の内サディスティック」は、いまなお2000年代を代表する楽曲として広く愛され続けている。

翌2000年、2ndアルバム「勝訴ストリップ」はオリコンで230万枚を超える大ヒットを記録した。この2枚はいずれも日本ゴールドディスク大賞ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞し、「勝訴ストリップ」は日本レコード大賞ベストアルバム賞にも輝いている。

二十代前半で、すでに彼女は時代を代表する作家になっていた。

東京事変――バンドという新しい器

2003年、3rdアルバム「加爾基 精液 栗ノ花」を発表した同じ年、椎名林檎はバンド・東京事変を結成する。ソロの作家として完成されていた人が、あえて複数の演奏家とぶつかり合う「バンド」という器を選んだことは、彼女の表現がさらに広がっていく転機だった。

2004年のデビューシングル「群青日和」、1stアルバム「教育」を皮切りに、東京事変は独自のグルーヴを生み出していく。バンドは2012年2月29日の日本武道館公演をもって一度活動を終えるが、2020年、彼女たちは「再生」と称して解散時のメンバーで再び動き出した。終わらせ方も、戻り方も、すべてが彼女の美意識の内側にあった。

歌う枠を超えて――リオ五輪という大舞台

椎名林檎の表現が「歌う人」の範疇に収まらないことを、世界に決定づけたのが2016年だった。この年、彼女はリオデジャネイロオリンピック・パラリンピック閉会式のフラッグ・ハンドオーバーセレモニーで、演出と音楽監督を務めた。

次の開催国・日本を世界に紹介するこの場面の構成と音楽を、彼女は丸ごと手がけた。歌詞も曲も衣装も世界観も自分で握ってきた人が、ついに国家規模の祝祭の演出までやってのけたのである。2009年には芸術選奨文部科学大臣新人賞も受けており、その評価は娯楽の領域をとうに超えていた。

デビューから二十数年。椎名林檎は一度も自分の美学を手放さなかった。可愛らしさと色気、知性と狂気を一人で背負い、そのすべてを一個の完璧な世界として提示し続けてきた。

媚びないこと。自分の基準だけで押し通すこと。それは口で言うほど簡単ではない。彼女はそれを、二十歳の頃から今日まで、ぶれることなくやり遂げている。日本にこの人がいたこと自体が、ひとつの幸運なのかもしれない。