帽子を投げ、時代を奪う——沢田研二という名の華
スポットライトを浴びた一人の男が、歌の終わりにくるりと身を翻し、被っていた帽子を客席へ放り投げる。1977年、「勝手にしやがれ」のあの一瞬は、テレビの前の日本中を釘付けにした。番組の視聴率は50.8%。二人に一人がその姿を見ていた計算になる。
沢田研二、愛称ジュリー。グループサウンズの熱狂のなかからリードボーカルとして現れ、ソロ歌手として昭和の男性美を一身に体現し、やがて俳優として狂気と枯淡の両極を演じ分けた。半世紀以上にわたって舞台に立ち続けてきたこの人を、ただの往年のスターと呼ぶのは惜しい。彼は今も、自分の美学を一ミリも曲げずに立っている。
京都の少年が掴んだマイク
1948年、鳥取県岩美郡津ノ井村に生まれた澤田研二は、3歳以降を京都で育った。少年時代は野球に熱中し、中学では野球部のキャプテンを務めている。高校では空手にも打ち込んだ。後年のしなやかで力強いステージパフォーマンスの根に、こうした身体の鍛錬があったと思うと興味深い。
転機は1967年。グループサウンズバンド「ザ・タイガース」のリードボーカルとしてデビューを果たす。京都府立鴨沂高等学校は中退し、大学へは進まなかった。学歴ではなく、声と佇まいひとつで世に出た人だった。タイガースは瞬く間に時代の寵児となり、ジュリーという愛称とともに、彼の名は全国の少女たちの胸に刻まれていく。
ソロ、そして頂点へ
1971年、ザ・タイガースは解散する。沢田は萩原健一らとスーパーバンド「PYG」に参加しつつ、同年シングル「君をのせて」でソロデビューを切った。グループの看板を下ろした歌手が、一人で立てるかどうか。その問いに彼は圧倒的な答えを返す。
1973年、「危険なふたり」がソロ初のオリコン1位を獲得し、日本歌謡大賞に輝いた。1975年「時の過ぎゆくままに」、1977年「勝手にしやがれ」、1980年「TOKIO」、1981年「ストリッパー」——次々と放たれるヒットは、単なる流行歌ではなかった。派手な衣装、煙るような色気、計算された身振り。沢田研二は一曲ごとに違う仮面をかぶり、歌謡曲をひとつの劇場へと変えていった。ソロシングルの総売上は1,241万枚にのぼる。
美しい男が選んだ「狂気」
甘い二枚目に安住しなかったところに、この人の真価がある。1979年、映画「太陽を盗んだ男」で主演を務めた沢田は、原子爆弾を自作する常軌を逸した理科教師を演じきった。その怪演は高く評価され、第3回日本アカデミー賞優秀主演男優賞、報知映画賞主演男優賞をもたらす。
以後も「魔界転生」「ときめきに死す」「夢二」と、彼は俳優としての領域を広げ続けた。歌で築いた華やかなイメージを、自ら壊しにいくような役柄選び。アイドル的な人気を持ちながら、その人気に寄りかからない。歌手と俳優、両方の頂で評価を得た稀有な存在となった。
曲げない人
1989年、沢田は女優・田中裕子と出雲大社で挙式した。表舞台の派手さとは別に、私生活では確かな歩みを重ねている。1995年にはセルフ・プロデュースを宣言し、以降のアルバム制作を自身の手に委ねた。他人の差配ではなく、自分の判断で音楽をつくる——その姿勢は彼らしい。
2019年、さいたまスーパーアリーナ公演を直前でキャンセルした一件は大きな話題を呼んだ。動員数が計画の8割を下回ったことを理由に、自らの判断で中止を選んだのだ。賛否はあれど、観客に対しても自分に対しても妥協を許さない、その頑固なまでの美学がにじむ出来事だった。
老いてなお、立つ
そして2022年、映画「土を喰らう十二ヵ月」で主演を務めた沢田研二は、再び俳優として高く評価される。翌2023年、第77回毎日映画コンクール男優主演賞、第96回キネマ旬報主演男優賞を受賞。山あいで静かに暮らす作家を演じたその姿は、かつて帽子を投げた華やかなスターと同じ人物とは思えぬほど、枯れた深みをたたえていた。
若き日のグループサウンズのアイドルから、昭和を彩った歌姫ならぬ歌王へ、さらに賞をさらう名優へ。沢田研二の歩みは、変わり続けることで変わらない自分を守ってきた軌跡でもある。
華やかさの中に芯の通った頑固さを宿す——それが沢田研二というスターの正体だ。年齢を重ね、体型が変わってもなお背筋を伸ばし、自分の美意識を一ミリも譲らない。最後の最後まで妥協しない、本物の星。あの帽子はまだ、宙を舞い続けている。