声だけで人を泣かせる男――玉置浩二、旭川から日本中の喉を震わせるまで
「歌がうまい人」と言われて誰の顔を思い浮かべるか。同業のプロに尋ねれば、かなりの確率でこの名前が返ってくる。玉置浩二。安全地帯のフロントマンであり、ソロでも数々の名曲を生み、他人に提供した楽曲でもレコード大賞をさらった、稀代のシンガーソングライターである。
その魅力を一言で言うのは難しい。バラードで漏れ出る大人の色気と、「田園」で空に向かって叫ぶような開放感。振り幅はおそろしく大きいのに、たった一音でそれが彼の声だと分かる。北海道旭川市の少年が、井上陽水のバックバンドから這い上がり、日本中の喉を震わせるまでの物語をたどってみたい。
旭川の少年と、中学で組んだバンド
玉置浩二は1958年9月13日、北海道旭川市に生まれた。少年時代は野球に打ち込み、中学では投手で4番を任されるほどの実力者だったという。スポーツの中心人物が、やがて音楽の中心人物へと変わっていく。
1973年、中学の同級生たちと結成したのが「安全地帯」だった。実兄の玉置一芳も初期のドラムを担当していたという、文字どおり仲間と地元から始まったバンドである。高校は北海道旭川農業高等学校に進むも中退し、大学へは進学しなかった。学歴ではなく、音そのもので勝負する道を、彼は早くから選んでいた。
井上陽水という転機
安全地帯がメジャーへたどり着く決定的なきっかけは、音楽プロデューサーを介して井上陽水のバックバンドに参加したことだった。陽水のステージを支えながら腕を磨いた経験は、デビュー前の玉置にとって師に学ぶような時間でもあった。
1982年2月、安全地帯はシングル「萠黄色のスナップ」でメジャーデビューを果たす。所属はワーナーミュージック・ジャパン。地元のバンドが全国の舞台に立った瞬間だった。だが、本当の爆発はその少し先に待っていた。
「ワインレッドの心」と頂点の時代
1983年に放たれた「ワインレッドの心」は、翌1984年にオリコン1位、70万枚を超える大ヒットとなった。続く1985年の「悲しみにさよなら」は100万枚を超えるミリオンセラーを記録し、この年、安全地帯はNHK紅白歌合戦に初出場を果たす。「恋の予感」もまた、この時代を象徴する一曲だ。
歌唱力は早くから折り紙つきだった。1984年と1985年、安全地帯はFNS歌謡祭最優秀歌唱賞を2年連続で受賞する。これは史上初の快挙だった。色気と切なさをまとったバラードを、誰よりも説得力をもって歌い切る――その評価は、この時点ですでに揺るぎないものになっていた。
ソロ、そして「田園」で空に叫ぶ
1987年7月、玉置はソロシングル「All I Do」でソロデビューを果たす。バンドの色気あるバラードとはまた違う表現を、彼は一人の名義でも追い求めていく。
作曲家としての才能も見逃せない。1993年、香西かおりに提供した「無言坂」が第35回日本レコード大賞の大賞に輝いた。自分が歌わない曲でも、日本の歌謡界の頂点に立てることを証明したのである。そして1996年、ソロシングル「田園」がオリコン最高2位、ミリオンセラーを達成。「愛はここにある」と空へ叫ぶようなあの歌は、安全地帯のしっとりとしたバラードとはまるで別の表情を見せ、彼の振り幅の広さを世に焼きつけた。同年の映画「ロマンス」では主演と音楽を兼ね、NHK大河ドラマ「秀吉」にも出演している。
自分の名を冠したレーベルへ
2003年には安全地帯が活動を本格的に再開し、バンドとソロの両輪が再び動き出す。2010年にはタレントの青田典子と結婚。そして2012年、玉置は自身のオリジナルレーベル兼事務所「SALTMODERATE」を設立した。大手の傘の下を離れ、自分の音を自分で守る体制を整えたのである。
2014年のアルバム「GOLD」では作詞・作曲・歌唱のすべてを担い、円熟の表現を見せた。2024年には第75回NHK紅白歌合戦に特別企画として出場。デビューから半世紀を超えてなお、その声は現役であり続けている。
歌のうまい人は世にいくらでもいる。だが、声そのもので聴き手の心をぐにゃりと崩してしまう人は、そうそういない。普通に歌っているだけなのに、なぜか喉の奥がギュッとなって涙ぐんでしまう――玉置浩二の声には、理屈を超えたそんな力がある。
旭川の野球少年が、井上陽水のバックバンドから日本中を泣かせる歌い手になった。叩き上げの本物が、同じ時代に歌っている。それを聴けることを、幸運と呼ばずに何と呼ぼう。