24勝0敗1分という奇跡――田中将大、気持ちで投げ続けた男の軌跡

スポーツの歴史には、数字だけでは説明しきれない記録がいくつかある。田中将大が2013年に刻んだ「24勝0敗1分」も、その一つだ。シーズンをフルに投げ抜いて、一度も負けない。ただの好成績ではない。それは、ほとんど神話の領域に踏み込んだ偉業だった。
兵庫県伊丹市に生まれた「マー君」は、甲子園のヒーローからプロ野球の頂点へ、そして海を渡ってニューヨークのマウンドへと駆け上がっていった。打者を惑わすスプリット、追い込まれた場面でこそ凄みを増す投球、そして満身創痍でも腕を振り続ける根性。これは、最後まで「気持ちで投げる男」であり続けた一人の投手の物語である。
甲子園の夏――早稲田実業との死闘
田中の名が全国に知れ渡ったのは、プロ入りより前のことだった。駒澤大学附属苫小牧高等学校に在学していた彼は、2005年、2年生として夏の甲子園連覇に貢献する。北の地から現れた剛腕投手は、すでに高校野球ファンの注目の的だった。
そして翌2006年、運命の夏が訪れる。決勝の相手は早稲田実業。両校は引き分け、史上に残る再試合へともつれ込んだ。死闘の末、田中のチームは惜しくも準優勝に終わる。この甲子園の夏は、彼の名前を全国区の存在へと押し上げ、プロのスカウトたちの視線を一身に集めることになった。
楽天入団と新人王
2006年の高校生ドラフトで、田中は東北楽天ゴールデンイーグルスから1位指名を受ける。大学には進まず、高校卒業後すぐにプロの世界へ飛び込んだ。そして2007年、ルーキーイヤーにいきなり11勝を挙げ、パシフィック・リーグの最優秀新人――新人王に輝く。
高卒1年目から二桁勝利を挙げる投手は、そう多くない。田中は、その並外れた素質を即座にプロの舞台で証明してみせた。若き右腕は、誕生したばかりの球団・楽天の希望を背負い、エースへの階段を一段ずつ上っていく。
投手三冠と、神話の2013年
2011年、田中は投手としての完成形を見せる。最多勝、最優秀防御率、そして最多奪三振――投手三冠を達成し、最高の投手に贈られる沢村栄治賞を受賞した。さらに2012年には最多奪三振のタイトルも手にしている。
しかし、彼のキャリアの頂点は2013年に訪れた。この年、田中は24勝0敗1分、防御率1.27という、日本プロ野球史上最高勝率の記録を打ち立てる。シーズンを通して一度も負けなかったのだ。彼は楽天を球団史上初の日本一へと導き、満票でパシフィック・リーグMVPに選出され、二度目の沢村賞も受賞した。追い込まれた場面でストンと落ちるスプリットに、打者たちはバットを振らされ続けた。
東北の象徴として
田中の2013年が特別だったのは、記録の凄まじさだけではない。彼が背負っていたのは、東日本大震災からの復興の途上にあった東北の人々の思いだった。「マー君」と呼ばれ親しまれた彼は、楽天の顔として、被災地の象徴的な存在になっていった。
球団初の日本一は、東北中を熱狂させた。マウンドで鬼の形相を浮かべて唸る一方で、その勝利は多くの人の背中を押した。一人の投手の奮闘が、地域の希望と重なり合った――2013年の夏は、野球の枠を超えた意味を持つ季節だった。
ヤンキースのマウンド、そして読売へ
2014年、田中はニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、海を渡る。1年目から13勝5敗・防御率2.77という見事な成績を残し、メジャーリーグでも腕一本で渡り合えることを示した。2015年にはヤンキース史上初の日本人開幕投手という大役を任されている。
7シーズンにわたるヤンキース生活を経て、2021年に田中は古巣・東北楽天ゴールデンイーグルスへ復帰。そして2024年には読売ジャイアンツへと移籍した。プライベートでは2012年にタレントの里田まいと結婚し、二人の子の父でもある。マウンドでの鬼気迫る表情とのギャップに、彼の人間味がにじむ。
田中将大のキャリアには、楽な時代がほとんどなかった。甲子園の死闘、誕生したばかりの球団でのエースの重圧、メジャーの強打者との真っ向勝負、そして満身創痍での登板。それでも彼は、腕を振り続けた。
24勝0敗1分という数字は、確かに途方もない。だが田中の本当の凄みは、その数字の裏にある「気持ち」にある。痛みを睨みつけ、最後まで投げ抜く闘志。彼は数字以上に、執念で打者と向き合い続けた競争者だった。マー君、あなたはやはり、気持ちで投げる男なのだ。