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宇宙の向こうから歌が降りてくる――矢野顕子、自由という名の音楽

矢

ピアノを弾きながら、まるで会話するように歌う。そのリズムは譜面の枠から軽々とはみ出し、それでいて崩れない。可愛らしい声なのに、どこか遠い場所――宇宙の向こうあたり――から聞こえてくるようで、子どもの歌のような旋律に、なぜか大人がぼろぼろ泣いてしまう。矢野顕子の音楽には、そういう不思議な引力がある。

1955年に東京で生まれ、青森で育った少女は、十代で単身上京し、二十歳そこそこでのデビュー作が音楽界を驚かせた。以来半世紀、彼女はジャンルにも国境にも縛られず、ただ「自分の音楽」を追い続けてきた。これは、自由であることをやめなかった一人の音楽家の物語である。

青森の少女、ピアノに出会う

東京都に生まれた顕子は、三歳のころ、父の開業に伴って青森市へ移り住んだ。青森で学びながら、彼女の世界の中心には早くからピアノがあった。

音楽への思いは、地方の暮らしのなかで膨らんでいく。1971年、彼女は単身で上京し、青山学院高等部に入学する。だが学校生活より、彼女を引き寄せたのは音楽の現場そのものだった。やがて高校を中退し、十代でプロの世界へと足を踏み入れていく。学歴という型にはまるより、鍵盤の前に座ることを選んだのだ。

衝撃のデビュー

1974年、彼女はバンド「ザリバ」に参加し、スタジオミュージシャンとしてのキャリアを積み始める。同年、音楽プロデューサーの矢野誠と結婚した。

そして1976年、アルバム「JAPANESE GIRL」でソロデビュー。型破りな歌唱とピアノ、自在なリズム感は音楽業界に衝撃を与えた。普通なら歌と伴奏がぶつかってしまうような節回しを、涼しい顔でひとつの音楽にまとめてしまう――その才能は、最初の一枚から鮮烈に世に放たれていた。

YMOと『春咲小紅』、表舞台への接近

1979年と1980年、彼女はイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のワールドツアーにサポートメンバーとして参加する。テクノポップが世界を席巻していくその只中に、彼女は鍵盤奏者として立っていた。

1981年には、カネボウ化粧品のCMソングに起用されたシングル「春咲小紅」が大ヒット。オリコンシングルチャートで最高5位を記録し、彼女の名は一般のお茶の間にまで広く知れ渡った。同年には忌野清志郎とのデュエット「ひとつだけ」も生まれている。前衛と大衆、その両方を行き来できるのが矢野顕子という音楽家だった。

ニューヨーク、そして「ごはんができたよ」という普遍

1980年には坂本龍一との間に、のちに歌手となる長女・坂本美雨が生まれ、1982年に入籍する。1990年、彼女は制作の拠点をニューヨークへ移す。世界の音楽の中心地で、彼女はなお自分の音を磨き続けた。

代表曲「ごはんができたよ」は、日常のささやかな呼びかけを、いつまでも心に残る普遍の歌へと昇華させた一曲だ。前衛的でありながら、生活の手ざわりを失わない。彼女の歌が長く愛されるのは、難解さと親しみやすさが矛盾なく同居しているからだろう。坂本龍一とは2006年に離婚するが、音楽家としての歩みが止まることはなかった。

止まらない探究――上原ひろみとの共鳴

近年も彼女の創作意欲は衰えない。2021年にはアルバム「音楽はおくりもの」を発表。そして2004年から共演を重ねてきたピアニスト上原ひろみとは、2011年にライブ・アルバム『Get Together 〜LIVE IN TOKYO〜』も世に出している。二人のピアノが火花を散らすように呼応するその共演は、彼女が一切の予定調和を拒む音楽家であることの証だ。即興演奏で見せる奔放さは、デビュー当時のそれと、何ひとつ変わっていない。

矢野顕子の音楽は、最初から最後まで「自由」という一語で貫かれている。ジャンルの壁も、国境も、年齢も、彼女にとっては越えるべき線ですらないのかもしれない。

可愛らしいのにどこか宇宙的で、子どもの歌のようでいて大人を泣かせる――その不思議な引力の正体は、たぶん、嘘のない自由さだ。これからも彼女は涼しい顔で、誰にも真似できない節回しを、ピアノの前で歌い続けるのだろう。