視聴率100%男――萩本欽一、人を傷つけない笑いを貫いた大将
1980年代、テレビをつければ「欽ちゃん」がいた。週に3本のレギュラー番組、そのすべてで化け物じみた視聴率を叩き出し、世間は彼を「視聴率100%男」と呼んだ。もはや一人の芸人というより、ひとつの社会現象だった。
だが彼の笑いの本質は、数字の派手さではない。素人をそのまま舞台に上げ、たどたどしさを温かい笑いに変えてしまう、あの絶妙な「間」。萩本欽一が半世紀かけて磨き続けたのは、誰も傷つけない優しさで人を笑わせる、という難しい芸だった。これは、その「大将」の物語である。
浅草の舞台から始まった
1941年、萩本欽一は東京府東京市下谷区稲荷町(現・東京都台東区)に生まれた。育ちは埼玉県浦和市。三人兄弟の真ん中で、兄は後に化粧品会社の会長、弟は小学校の校長になったという、堅実な一家だった。
しかし欽一が選んだのは、堅い道ではなかった。1960年、駒込高校を卒業すると、彼は浅草東洋劇場に自ら入団し、コメディアン修行を始める。先輩芸人たちに揉まれながら、舞台の上で笑いの呼吸を体に叩き込んでいった。テレビ全盛の前夜、彼の芸の土台は、生の舞台で築かれたのだ。
コント55号、テレビを揺らす
1966年、欽一は坂上二郎とコンビ「コント55号」を結成する。これが爆発的な人気を呼んだ。舞台狭しと坂上二郎を追い回す、あのキレッキレの動き。激しく動き回る欽一と、それを受ける坂上――二人の呼吸が生み出すコントは、テレビという新しいメディアにぴたりとはまった。
1968年には冠番組「コント55号のなんでそうなるの?」が始まり、1970年・1971年には主演映画「世紀の大弱点」「宇宙大冒険」も公開。コント55号は、まさに時代の顔となっていった。
「視聴率100%男」の時代
1971年、欽一は「スター誕生!」の司会を務め、個人としての司会業を本格化させる。ここから彼の独走が始まった。1972年の「欽ドン! 良い子悪い子普通の子」、1976年の「欽ちゃんのどこまでやるの!」、1982年の「欽ちゃんの週刊欽曜日」――。
1982年、彼は週に3本のレギュラー番組を抱え、そのすべてで高視聴率を記録した。三番組の視聴率を足せば100に届く、という意味も込めて、世間は彼を「視聴率100%男」と呼んだ。一人の芸人がこれほどテレビを支配した例は、後にも先にもそうはない。それはもはやキャリアというより、自然現象に近かった。
素人を主役にする、優しい笑い
欽一の真骨頂は、素人いじりにあった。緊張でたどたどしい一般人を舞台に上げ、その失敗やぎこちなさを、あたたかい笑いへと変えてしまう。それは、相手を見下したり傷つけたりする笑いとは正反対の芸だった。
その精神が結晶したのが、1979年に始まった「全日本仮装大賞」だ。素人たちの一生懸命な仮装を、欽一が優しい笑顔で受け止める。香取慎吾とのコンビ司会へと姿を変えながら、この番組は何十年も続く長寿番組となった。1998年には長野冬季オリンピック閉会式の総合司会も務め、その手腕は特別功績として評価されている。
監督業、そして73歳の大学生
笑いの世界だけにとどまらないのも欽一らしさだ。1993年には映画「欽ちゃんのシネマジャック」を製作・監督・出演し、第37回ブルーリボン賞特別賞を受賞。2005年にはクラブ野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を創設して監督に就き、2010年まで指揮を執った。
そして極めつけは、2015年。彼は73歳にして駒澤大学仏教学部に社会人入試で入学する。好奇心の塩梅が、いちいち規格外なのだ。2019年に自主退学するまで、彼は学ぶ喜びそのものを楽しんでいるように見えた。1975年に結婚した妻・澄子さんを2020年に見送ってもなお、その人生への食欲は衰えない。
コント55号でのキレッキレの動きも、素人を主役にする優しい間も、そして73歳で大学に通う旺盛な好奇心も――すべては「人生を面白がる力」でつながっている。
萩本欽一は、お笑いを「人を傷つけない優しさ」で最後までやり切った。だからこそ、何十年経っても変わらないあの笑顔を見ると、こちらまでほっとする。彼はやっぱり、誰もが慕う「大将」なのだ。