スーパーのバックヤードから日本一へ――HIKAKINが切り開いた「職業YouTuber」という生き方

テレビにほとんど出ていないのに、子どもから大人まで誰もが名前を知っている。そんな新しいタイプのスターが日本に現れたとき、その先頭に立っていたのが新潟県妙高市出身の青年、開發光――HIKAKINだった。
彼が歩んだ道は、はじめから用意された王道ではなかった。地方のスーパーマーケットで働きながら、口だけで音を奏でるヒューマンビートボックスをひたすら磨き、まだ誰も「仕事」とは思っていなかったYouTubeに賭けた。その選択が、後に日本のエンターテインメントの地図を塗り替えることになる。
これは、ひとりのビートボクサーが「職業YouTuber」という生き方そのものを発明していった物語である。
妙高の少年と、口から生まれた音楽
1989年4月21日、HIKAKINは新潟県妙高市に生まれた。妙高高原南小学校、妙高高原中学校、新潟県立新井高等学校と、雪深い土地で少年時代を過ごす。大学には進学しなかった。
彼の運命を変えたのは、楽器ではなく自分の口だった。独学で習得したヒューマンビートボックス――口や喉だけでドラムやベースの音を生み出す技術に夢中になり、その演奏動画を2006年12月30日、YouTubeに投稿し始める。チャンネル名はそのまま「HIKAKIN」。当時のYouTubeはまだ黎明期で、それを職業にするなどという発想は、ほとんど誰の頭にもなかった時代である。
「Super Mario Beatbox」、世界が振り向いた瞬間
転機は2010年に訪れた。誰もが知るゲーム音楽を、口だけで完全再現した「Super Mario Beatbox」。この一本が国内外で爆発的な反響を呼び、HIKAKINの名は海を越えて知られるようになる。
たった一人、口ひとつで世界とつながれる。テレビ局も事務所もレコード会社も介さず、地方に暮らす無名の青年の表現が、地球の裏側にまで届いた。それは、後にやってくるYouTuberという職業の可能性を、最も鮮やかに証明した瞬間だった。
専業への決断と、日常を撮るという発明
2011年、HIKAKINはビートボックスとは別に「HikakinTV」を立ち上げる。商品レビューや日常の出来事を気さくに語るこのチャンネルは、彼を一気に国民的な存在へと押し上げていく。
そして2012年、彼は勤めていたスーパーマーケットを退職し、YouTuber一本で生きることを決断する。安定した職を手放してまだ海のものとも山のものともつかない世界に飛び込むその選択には、相当な勇気が必要だったはずだ。だが彼は、毎日コツコツと動画を投稿し続けるという、地味で過酷な継続によってその賭けに応えていった。10年以上続く日々の投稿は、口で言うほどたやすいものではない。
UUUMの設立と、業界そのものを育てる側へ
2013年、HIKAKINはゲーム実況チャンネル「HikakinGames」を開設すると同時に、YouTuberを支える事務所、UUUM株式会社の設立に参画する。彼はファウンダー・最高顧問として、自分が切り開いた道を後続のクリエイターが歩けるよう、業界そのものを整える側に回った。
2015年にはHikakinTVが日本一の登録者数を達成。兄であり同じくYouTuberのSEIKINと制作した「YouTube Theme Song」も話題を呼んだ。2021年にはHikakinTVの登録者数が1000万人を突破。YouTube、Yahoo!検索大賞、各種メディアアワードと、受賞歴は彼が単なる一過性のブームではないことを物語っている。
炎上しない賢さと、みそきんという新章
これだけ売れながら、HIKAKINにはいわゆる「炎上」らしい炎上がほとんどない。その立ち回りの賢さと、にじみ出る人の好さは、彼が長く愛され続ける大きな理由だろう。愛猫のスコティッシュフォールド、まるおともふこと暮らす姿も、ファンに親しまれてきた。
2023年には自身のブランド「Hikakin Premium」を立ち上げ、セブン-イレブンで「みそきん濃厚味噌ラーメン」を発売。これが社会現象級の人気となり、累計1000万食を突破した。表現者であると同時に、ヒット商品を生み出す実業家としての才覚も証明してみせたのである。
2024年1月1日、HIKAKINは一般女性との結婚を発表。同年8月には第一子となる長女の誕生を報告し、人生の新しい章へと進んだ。
スーパーのバックヤードから日本一へ。彼は単に成功したのではなく、「YouTuberになりたい」という子どもたちの夢そのものを生み出した。新しいメディアの時代を黙々と地ならしした開拓者として、その名はこれからも長く残っていくに違いない。