変化球の図書館を抱えた男――ダルビッシュ有が二十年で書き換えたもの

1986年8月16日、大阪府羽曳野市に生まれたダルビッシュ有。イラン出身の父と日本人の母のもとに生まれたこの少年は、やがて196センチという恵まれた体躯を得て、日本とアメリカの両方で「エース」と呼ばれる存在になる。
だが彼を唯一無二にしているのは、身長でも球速でもない。それは、まるで文房具屋の引き出しのように整然と並んだ、おびただしい数の変化球と、自分の身体を一つの研究対象として扱い続ける飽くなき探究心だ。
これは、高校を出てすぐにプロの世界へ飛び込み、二十年をかけて日米の歴史に名を刻み続けている一人の投手の物語である。
羽曳野から東北へ、そしてプロの扉
大阪府羽曳野市で育ったダルビッシュは、宮城県の東北高等学校へと進む。大学には進学しなかった。2004年、高校を卒業すると同時に、北海道日本ハムファイターズからドラフト1位の指名を受け、プロ野球の世界へと足を踏み入れる。
ドラフト1位という肩書は、期待であると同時に重圧でもある。だが彼はその重さを糧に変えていく。入団からわずか二年後の2006年には、日本ハムの日本シリーズ制覇に貢献。チームの頂点に、まだ十代から二十歳そこそこの若者が立っていた。
21歳のエース、タイトルを総なめにする
2007年、ダルビッシュは一気に頂点へ駆け上がる。パ・リーグの最優秀選手(MVP)に加え、投手最高の栄誉とされる沢村賞、最多奪三振、ゴールデングラブ賞、ベストナイン――この年だけで主要タイトルをほぼ独占した。
当時21歳。MVP受賞は当時の最年少記録に次ぐ若さであった。守備でも評価されるゴールデングラブ賞まで手にしたことは、彼が単なる剛腕ではなく、野球そのものを高い次元で理解する選手であることを物語っていた。2009年には再びパ・リーグMVPと最優秀防御率を獲得し、日本での地位を不動のものとする。
太平洋を渡る――テキサスからシカゴへ
日本での実績に区切りをつけ、2012年、ダルビッシュはポスティングシステムを経てテキサス・レンジャーズへ移籍。メジャーリーグ(MLB)の舞台に立つ。移籍一年目から先発の柱として存在感を放ち、日本人投手が世界最高峰のリーグでも通用することを改めて証明した。
その後の歩みは、決して平坦ではなかった。2017年にはロサンゼルス・ドジャースへ移り、ワールドシリーズの大舞台を経験。翌2018年にはシカゴ・カブスへと渡る。所属チームを変えながらも、彼は常にローテーションの中心であり続けた。
日本人初の称号、そして侍ジャパンの世界一
2020年、ダルビッシュはMLBで最多勝利を記録する。これは日本人投手として史上初の快挙だった。翌2021年にはサンディエゴ・パドレスへ移籍し、同年オールスターにも選出される。
そして2023年、彼はWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本代表として侍ジャパンに名を連ね、世界一奪還の立役者の一人となった。ベテランとして若手投手陣を支えるその姿は、もはや単なる投手の枠を超えていた。2024年には日米通算200勝、そしてMLB通算2000奪三振という、いずれも日本人選手として歴史に刻まれる金字塔へと到達する。
自分の身体を研究室にする男
ダルビッシュを語るとき、変化球の多彩さは欠かせない。一般的な投手が二つ三つの球種で勝負するなか、彼は二十種類以上とも言われる豊富な持ち球を操り、しかも三十代後半に至っても新たな球種を生み出し続けてきた。
その背景にあるのが、栄養・睡眠・トレーニングへの徹底したこだわりだ。自分の身体をあたかも進行中の科学プロジェクトのように扱い、得た知見を惜しみなく若い投手たちと分かち合う。一方で、グレープフルーツだけは頑として口にしないという妙に人間味のある一面も持ち合わせている。理屈っぽさと世話焼き、その両方が同居しているのだ。
高校を出てプロの世界へ飛び込んだ若者は、二十年をかけて日米両方の頂で記録を打ち立てた。だがダルビッシュの本質は、達成したタイトルの数ではなく、自分自身をどこまでも探究し続けるその姿勢にある。
196センチの身体に、まるで図書館のように整理された変化球と、尽きることのない知的好奇心を詰め込んだ大阪生まれの投手。彼の探究は、今なおマウンドの上で続いている。