歴史を「おもろい読み物」に変えた男――福田定一が司馬遼太郎になるまで

教科書のなかの戦国も幕末も、本来なら年号と人名の羅列でしかない。けれど、ある一人の作家の手にかかると、坂本龍馬が突然となりで笑い出し、土方歳三が刀を握りしめて駆け出していく。その魔法を、戦後の日本にもたらしたのが司馬遼太郎だった。
本名は福田定一。一九二三年、大阪の難波に生まれた、どこか親しみやすい名前を持つ人物である。新聞記者として働きながらコツコツと小説を書き、四十年にわたって日本人の歴史観そのものを書き換えていった。これは、一人の好奇心の塊が国民的作家になるまでの物語だ。
大阪の少年と、戦車に乗った青年
福田定一は大阪市南区難波西神田町、現在の浪速区塩草あたりに生まれた。少年時代から図書館と古本屋を愛し、本に埋もれて育った読書家だった。
進学したのは大阪外国語学校の蒙古語学科。だが時代が彼を放っておかなかった。一九四三年、学徒出陣によって繰り上げ卒業となり、戦車第十九連隊に入営、やがて満洲の戦車第一連隊に配属される。戦車のなかで青春の一時期を過ごしたこの体験は、後年「なぜ日本はあんな無謀な戦争をしたのか」という問いとなって、彼の作品の根を深く貫いていくことになる。
記者として、そして「司馬遼太郎」誕生
一九四六年、復員した福田は京都の新日本新聞社に入り、のちに産経新聞社へと移る。記者として現場を駆け回りながら、その筆は次第に小説へと向かっていった。
一九五六年、彼は『ペルシャの幻術師』を発表する。このときに初めて使ったペンネームが「司馬遼太郎」だった。由来は、彼が深く敬愛した中国の歴史家・司馬遷である。「司馬遷には遼かに及ばない」という謙遜を込めて名づけられたというこの照れ隠しのような名前に、彼の人柄がにじんでいる。同年、この作品は講談倶楽部賞を受けた。
直木賞、そして専業作家へ
転機は早かった。一九六〇年、『梟の城』で第四十二回直木賞を受賞する。忍者を主題にしたこの作品で、彼は一躍注目の作家となった。
翌一九六一年、福田は産経新聞社を退社し、作家専業の道へと踏み出す。記者の安定を捨てての決断だったが、ここから司馬遼太郎の本領が爆発する。歴史の断片を物語へと織り上げる比類なき筆力は、まさにこの時期に研ぎ澄まされていった。
『竜馬がゆく』と『坂の上の雲』――国民的作家へ
一九六六年、『竜馬がゆく』の連載が完結する。坂本龍馬という一人の志士を、理屈っぽくも愛すべき青年として描き出したこの作品は、後世の龍馬像そのものを決定づけた。同年、『国盗り物語』とあわせて菊池寛賞を受賞している。
さらに一九七二年からの『坂の上の雲』では、明治という上り坂の時代を生きた人々の青雲の志を壮大に描いた。この作品はのちにNHKのスペシャルドラマとして二〇〇九年から二〇一一年にかけて放映され、新しい世代をも巻き込む大きな反響を呼んだ。彼の作品はもはや小説の枠を超え、日本人が自国の近代をどう感じるかという感覚そのものを形づくっていった。
蔵を買い占めるほどの好奇心――『街道をゆく』の旅
司馬遼太郎の執筆を支えていたのは、常軌を逸した資料収集癖だった。一つの作品のために古本屋の在庫を蔵ごと買い占める勢いだったというエピソードは、彼がいかに歴史というものに飢えていたかを物語っている。
一九七一年、週刊朝日で『街道をゆく』の連載が始まる。日本各地、そして海外の街道を実際に歩き、土地の歴史と人々を見つめたこの紀行は、全四十三巻にも及び、一九九六年に彼が世を去るその年まで書き継がれた。七十を過ぎてなお旅を続けたその姿は、純粋な好奇心が生涯絶えなかったことの証である。一九九三年には文化勲章を受章し、名実ともに国民的作家となった。
一九九六年二月、司馬遼太郎は腹部大動脈瘤破裂により大阪府吹田市の病院で息を引き取った。享年七十二。最後まで筆を執り、歴史を語り続けた生涯だった。
教科書のなかで眠っていた人々を、隣で喋り出すほど生き生きとよみがえらせた作家。福田定一という大阪のおっちゃんが、司馬遷への憧れを胸に「遼太郎」を名乗ったその瞬間から、日本の歴史は読み物として生まれ変わったのだ。