「俺は最強だ!」と言い切った男――国枝慎吾が車いすテニスで世界の頂点に立つまで

ラケットのフレームに、一枚の小さなシールが貼られていた。そこに書かれていたのは、「俺は最強だ!」というたった一言。普通なら気恥ずかしくて口にもできない言葉を、彼は試合のたびに視界に入れ、本気で信じ込み、そして実際に世界の頂点に立ってしまった。
国枝慎吾。日本の車いすテニスを、誰も知らないマイナー競技から、世界が注目する舞台へと押し上げた男である。9歳で歩く自由を失い、11歳でラケットを握り、最後は四大大会全制覇とパラリンピック金メダルを併せ持つ「生涯ゴールデンスラム」にまで到達した。その軌跡は、用意された才能の物語ではない。一打ずつ、自分の手で書き換えていった意志の物語だ。
9歳で訪れた人生の転機
1984年2月21日、千葉県柏市に生まれた国枝慎吾は、ごく普通に走り回る少年だった。だが9歳のとき、脊髄腫瘍が発覚する。手術を経て、彼は車いすでの生活を送ることになった。
幼い少年にとって、足を失うという現実をどう受け止めればいいのか、答えなどあるはずもない。だが彼の人生は、ここで止まらなかった。11歳のとき、彼は車いすテニスと出会う。コートの上では、車いすであることは「ハンデ」ではなく、ただ自分が向き合うべき条件のひとつになった。後に世界を席巻することになる選手の物語は、この小さな出会いから静かに始まっていた。
世界ランキング1位、そして年間グランドスラム
2004年、20歳の国枝はアテネパラリンピックに出場し、ダブルスで金メダルを獲得する。これが世界の舞台での最初の頂点だった。
そこから彼の進撃は止まらない。2006年にはアジア人として初めて車いすテニスの世界ランキング1位に到達。さらに翌2007年、四大大会のシングルスをすべて同一年に制する「年間グランドスラム」を、車いすテニス史上初めて達成してしまう。一年のうちに世界最高峰の大会をすべて獲り切るという離れ業を、彼はまだ20代前半でやってのけた。日本人選手が世界の常識を塗り替えた瞬間だった。
プロ転向という覚悟
2009年4月、国枝は日本の車いすテニス選手として初めてプロ転向を宣言する。同時にユニクロとスポンサー契約を結び、後にはグローバルブランドアンバサダーとして長く活動を共にすることになる。
「プロ」という言葉には、生活のすべてを競技に賭けるという覚悟がにじむ。当時の日本で、車いすテニスだけで食べていくのは決して当たり前のことではなかった。彼の決断は、自分自身のためであると同時に、後に続く選手たちへ「この道で生きていける」と示す道標でもあった。2011年には妻・愛さんと結婚し、生活と競技を支える基盤も整っていった。
パラリンピック三度の金、そして悲願のウィンブルドン
2008年北京、2012年ロンドンと、国枝はシングルスで連続して金メダルを掴む。だが王者にも陰りはあった。リオでは肘の故障に苦しみ、思うような結果を残せなかった時期もある。
それでも彼は折れなかった。2021年、自国開催の東京パラリンピックで、彼は2大会ぶり3度目のシングルス金メダルを獲得する。日本選手団の主将も務め、まさに日本パラスポーツの顔となった。そして2022年、長年手の届かなかったウィンブルドンをついに制覇。これにより四大大会全制覇とパラリンピック金を併せ持つ「生涯ゴールデンスラム」を、車いす男子史上初めて成し遂げた。グランドスラム車いす部門での優勝は、シングルス28回・ダブルス22回の計50回。男子世界歴代最多という、もはや誰も追いつけない数字である。
闘志と謙虚さのあいだ
コート上の国枝は、ギラギラとした闘志を隠さなかった。「俺は最強だ!」のシールは、メンタルトレーナーから学び、座右の銘とした言葉だ。自分を最強だと信じ切ること――それは傲慢ではなく、極限の場面で自分を支える技術だった。
一方で、2023年に引退を発表した会見で彼が語ったのは、勝利の数ではなかった。「車いすテニスを好きでい続けられたことが幸せ」。あれほど勝ちにこだわった男が、最後に口にしたのは競技への純粋な愛情だった。この闘志と謙虚さのギャップこそ、多くの人が彼に惹きつけられた理由だろう。
9歳で車いすの生活となり、11歳でラケットを握り、世界の頂点まで登り詰めた。これほど劇的な人生の脚本を、現実が用意してしまったことに驚かされる。だが彼の物語の核心は、与えられた境遇ではなく、それを「最強」へと変えていった本人の意志にある。
2024年、国枝は母校・麗澤大学の特任教授に就任した。コートを離れてなお、彼が次の世代に手渡そうとしているのは、技術だけではない。下を向く理由がいくらでもある場所からでも、人は世界の頂点に立てる――その事実そのものである。