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皆殺しの富野——ロボットアニメに「戦争」を持ち込んだ男

富野由悠季(アニメ監督・演出家)の写真

1979年、子どもたちがブラウン管の前に集まっていた。巨大ロボットが悪を倒す。そういう物語のはずだった。ところが画面の向こうから流れてきたのは、玩具の宣伝ではなかった。少年が大人の都合で兵器に乗せられ、味方も敵もあっけなく死んでいく。戦争という現実が、容赦なく茶の間に流れ込んできたのだ。

その物語をつくった男の名は、富野由悠季。神奈川県小田原市に生まれ、日本大学芸術学部映画学科を出たものの、本当は実写映画を撮りたかった人物である。映画会社の門は狭く、たどり着いた先が虫プロダクションだった。手塚治虫の城。そこから半世紀以上におよぶ、アニメ史そのものと言ってよい長い旅が始まった。

映画になれなかった青年、アニメにたどり着く

1941年11月5日、富野由悠季は神奈川県小田原市に生まれた。蠍座、AB型。日本大学芸術学部映画学科を1964年に卒業したが、当時の映画業界は不況のただ中にあり、若者が監督を志しても入る場所がなかった。

そうして彼が選んだのが、設立されたばかりの虫プロダクションだった。『鉄腕アトム』の現場で演出と脚本を担当し、アニメーターではなく「演出家」としてキャリアを踏み出す。映画への夢は一度は折れたように見えたが、彼はやがてアニメーションという媒体で、誰も撮ったことのない「映画」を撮ることになる。

ガンダム、そして「リアルロボット」の発明

1972年、『海のトリトン』でテレビシリーズ初監督。1977年の『無敵超人ザンボット3』ではサンライズ作品を手がけはじめ、ここですでに「戦争で人が死ぬ」という重い主題を子ども向け番組に持ち込んでいた。

そして1979年、『機動戦士ガンダム』が放映を開始する。ロボットは万能のヒーローではなく、量産される「兵器」だった。主人公は英雄ではなく、戦場に放り込まれた普通の少年だった。敵にも事情があり、思想があり、涙があった。それまでの巨大ロボットアニメの常識を根底から覆したこの作品は、のちに「リアルロボット」と呼ばれる一大ジャンルを生み、日本を代表するシリーズへと育っていく。

「皆殺しの富野」という異名

富野作品を語るとき、避けて通れない言葉がある。「皆殺しの富野」。ファンが愛着を抱いたキャラクターを、彼は容赦なく退場させた。1980年の『伝説巨神イデオン』では、その筆致が極限まで振り切れる。

なぜそこまでするのか。それは演出上の刺激のためではない。戦争を描く以上、死は避けられない。彼の作品からは、人間と社会の未来を本気で案じる切実さがにじみ出ている。独特の言い回し——いわゆる「富野節」——もまた、彼が世界をどう見ているかを映す、一種の発明された言語だった。1982年、彼は監督名義を「富野喜幸」から「富野由悠季」へと改め、以後この名で歴史に名を刻んでいく。

八十を超えても、まだ前へ

1985年の『機動戦士Zガンダム』、1988年の劇場版『逆襲のシャア』、1999年の『∀ガンダム』、そして2014年の『ガンダム Gのレコンギスタ』。彼は自ら生んだ巨大な物語と、生涯にわたって向き合い続けた。

その功績は国内外で認められている。2009年にはロカルノ国際映画祭で名誉豹賞を受賞。2019年に文化庁長官表彰、2021年には文化功労者に選ばれた。映画になれなかった青年が、アニメーションを通じて世界の映画祭にその名を刻んだのである。

作詞家・井荻麟として自作の主題歌を手がけ、小説も書き、絵コンテを切る。富野由悠季はいくつもの顔を持つが、その根にあるのは一貫している——人間はこの先どうやって生きていくのか、という問いだ。

子ども向けの玩具宣伝と侮られていた領域に、彼は戦争の地獄と人間の業を持ち込んだ。八十を超えてなお現役で次の世代に何かを残そうともがき続けるその姿は、アニメ史を語るうえで決して外せない。彼を抜きにこの歴史を語ることは、もはやできない。