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24歳で天井をぶち抜いた男――村上龍、爆弾を抱えたもうひとりのムラカミ

村上龍(小説家・映画監督)の写真

作家のデビューには、いくつかの型がある。長い下積みの末にようやく芽が出る人、編集者に磨かれて世に出る人。だが村上龍のそれは、そのどれでもなかった。1976年、武蔵野美術大学に在籍していた24歳の青年が書いた一編の小説が、群像新人文学賞と芥川龍之介賞をいきなり同時に受賞してしまう。タイトルは『限りなく透明に近いブルー』。米軍基地のある街で麻薬とセックスと暴力に沈む若者たちを、感覚だけで切り取ったその作品は、賛否を巻き起こしながら100万部を突破した。

普通なら、これで一生分の運を使い果たしてもおかしくない。だが村上龍という人は、そこからが本番だった。小説、映画、そしてテレビ。半世紀にわたって、彼は同じ場所に二度と立たなかった。

長崎県佐世保市。基地の街で育った少年が、なぜ日本文学の地図を塗り替えることになったのか。その軌跡をたどってみたい。

基地の街から来た芥川賞作家

1952年、村上龍は長崎県佐世保市に生まれた。アメリカ海軍基地を抱えるこの街の空気は、後の彼の作品世界の原風景になる。長崎県立佐世保北高等学校を経て武蔵野美術大学造形学部に進むが、大学は中退している。

『限りなく透明に近いブルー』は、その在学中に書かれた。基地の街を舞台に、ドラッグとロックに溺れる若者たちの日々を、ストーリーらしいストーリーを排して感覚的な描写で綴ったこの作品は、文学の常識を揺さぶった。芥川賞選考の場でも評価は割れたが、結果は受賞。24歳の新人がいきなり文壇の頂点に立ったのである。

一作ごとに姿を変える小説家

村上龍の真の凄みは、ここからの「変わり身」にある。1980年の『コインロッカー・ベイビーズ』は野間文芸新人賞を受賞。コインロッカーに捨てられた二人の少年の壮大な物語は、デビュー作とはまるで温度の違う神話的なスケールを見せた。

その後も彼は止まらない。1987年には青春小説『69 sixty nine』と、巨大な経済小説『愛と幻想のファシズム』を同時期に世に出す。1997年の『イン ザ・ミソスープ』で読売文学賞、2000年の『共生虫』で谷崎潤一郎賞、そして2005年、北朝鮮特殊部隊による福岡占拠を描いた大作『半島を出よ』で野間文芸賞と毎日出版文化賞をダブル受賞。生涯で七つもの主要文学賞を獲得した、その引き出しの多さは尋常ではない。

ペンを置き、メガホンを取る

村上龍は、自分の物語を他人に委ねることをよしとしなかった。1979年、デビュー作『限りなく透明に近いブルー』を自ら脚本・監督して映画化する。作家が自作を撮るという行為そのものが、当時としては異例だった。

1992年には『トパーズ(Tokyo Decadence)』を発表。1996年の『KYOKO』を最後に監督業からは退いたが、文字で築いた世界をそのまま映像に翻訳しようとしたその執念は、彼が単なる「書く人」ではなかったことを物語っている。

カンブリア宮殿の、もうひとつの顔

そして2006年、彼はまた別の顔を見せる。テレビ東京の経済番組『日経スペシャル カンブリア宮殿』の司会である。毎週、企業の経営者を相手に、静かな笑みを浮かべながら話を引き出す村上龍。

あの過激で不穏な小説を書いた人物と、この穏やかな司会者が同一人物だとは、にわかには信じがたい。だが両者をつなぐ芯は、おそらく一本通っている。退屈を何より嫌い、世界の本当の手触りを知りたいという飽くなき好奇心――それが小説でも映画でも経営者へのインタビューでも、彼を突き動かしてきたのだろう。

日本に「ムラカミ」という名の作家は二人いる。世界的に名を知られたもうひとりの陰で、村上龍はずっと静かに爆弾を抱え続けてきた。一作ごとにジャンルも温度も変え、小説の枠を飛び出して映像とテレビにまで踏み込んでいく。その姿は、デビュー時に放った破壊力を、半世紀かけて別の形で更新し続けてきた軌跡そのものだ。

24歳で天井をぶち抜いた青年は、その後の人生で「天井などない」ことを証明してみせた。静かな笑顔の奥に、いまも何かが仕掛けられている。そう思って読むと、村上龍はいっそう油断ならない作家に見えてくる。