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口数の少ない男が、日本一おしゃべりな寅さんになった——渥美清という奇跡

渥美清(俳優・コメディアン)の写真

スクリーンの向こうから、よれよれの帽子に腹巻き、革のトランクを提げた男が口上を切り出す。「私、生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯を使い……」。それだけで観客の頬がゆるみ、やがて泣き笑いの渦に巻き込まれていく。車寅次郎、通称フーテンの寅。日本映画史上もっとも愛された渡世人を演じた俳優、それが渥美清である。

だが、その明るく口の達者なフーテンを生み出した本人は、まったくの正反対だった。私生活を徹底して隠し、人前ではほとんど口を開かない、無口で人見知りの職人。家族のことすら世間に語らず、晩年は病をおして撮影に臨み、最後まで弱った姿を見せようとしなかった。役と本人のあまりに大きな落差。その距離こそが、渥美清という俳優の凄みだった。

1928年に東京・下谷で生まれ、1996年に68歳で世を去るまで。彼が残したのは、同じ一人の俳優が同じ役を演じ続けた最長映画シリーズとしてギネスブックに刻まれた、48作の物語である。

浅草の灯から始まった

渥美清、本名・田所康雄。芸の世界への入り口は、戦後まもない浅草六区だった。1951年、ストリップ劇場の専属コメディアンとして芸能活動を始める。きらびやかな映画スターの道とは程遠い、幕間のドタバタ喜劇からの出発だった。

1953年には浅草フランス座へ移籍。当時の浅草は喜劇人の梁山泊で、客を笑わせるための間合い、表情、身のこなしを、彼は舞台の上で叩き込まれていった。後年、テレビや映画であの絶妙な「間」を見せた土台は、すべてこの浅草の板の上で鍛えられたものだ。

しかし1954年、肺結核を患い、療養を余儀なくされる。順調に見えた歩みが、いきなり止まった。芸人として最も油の乗る時期を、病床で過ごすことになったのである。

喜劇人から「俳優」へ

病を乗り越えた渥美は、1958年に映画デビューを果たす。だが彼を単なる笑わせ屋から本物の俳優へと押し上げたのは、1963年の『拝啓天皇陛下様』だった。野村芳太郎監督のこの作品で、彼は無学だが純朴な兵隊を演じ、観客を笑わせながら、同時に胸を締めつけた。喜劇の奥に滲む哀しみ——それを表現できる稀有な役者として、彼の名は一気に知れ渡る。

笑いと涙を同じ一瞬に同居させる。この芸風が、後の寅さんという国民的キャラクターの設計図になった。フーテンの寅が愛されたのは、ただ面白いからではない。お調子者なのに不器用で、人を笑わせながら自分は報われない。その人間くささを、渥美清は誰よりも深く理解していた。

28年、48作——寅さんという終わりなき旅

転機は1968年。フジテレビのテレビドラマ『男はつらいよ』で車寅次郎を演じたことから、すべてが動き出す。翌1969年、山田洋次監督のもと映画版第1作が公開されると、寅さんは瞬く間に日本人の心の故郷になった。

以後、シリーズは28年にわたって48作が制作される。妹さくらを演じた倍賞千恵子との掛け合い、各地を旅しては必ず叶わぬ恋に落ちるマドンナとの物語、そして必ず帰ってくる柴又の団子屋。同じ構造を繰り返しながら、観客は飽きるどころか毎年それを待ち望んだ。「それを言っちゃあおしまいよ」——たった一言の名セリフが、世代を超えて受け継がれた。

これは、同一俳優による最長映画シリーズとしてギネスブックに認定される偉業となる。一つの役を生涯背負い続けるという、俳優として最も幸福で、最も過酷な道を、渥美清は歩み抜いた。

隠された素顔

これほどの国民的スターでありながら、渥美清は自分自身を語らなかった。妻・竹中正子とは1969年に結婚したが、家庭を世間の目から守り抜いた。趣味はアフリカ旅行、好物はさつまいも。陽気なフーテンとはおよそ結びつかない、静かで内省的な素顔がそこにあった。

紫綬褒章、毎日芸術賞特別賞、数々の主演男優賞。栄誉を重ねてもなお、彼は表舞台で自分を大きく見せることをしなかった。座右の銘は「がんばれ ふんばれ されどいばるな」。その言葉どおりに生き、いばることなく、ただ役を生き切った。

1996年8月4日、渥美清は腎細胞がんのため68歳でこの世を去った。最後まで病を周囲に深く明かさず、寅さんが弱る姿を観客に見せまいとした、その粋な意地を貫いて。没後、彼には国民栄誉賞が授与された。

無口な男が、日本一おしゃべりな男を演じた。人前で素顔を見せなかった男が、誰よりも親しみやすい「みんなの弟」になった。その矛盾こそが、渥美清の芝居の核心であり、二度と現れないであろう昭和の奇跡だった。柴又の空の下、フーテンの寅は今も旅を続けている。