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スクリーンが彼の方へ傾いた——石原裕次郎、太陽になった男

石原裕次郎(俳優・歌手)の写真

1950年代の日本映画に、それまで誰も見たことのない若者が現れた。178センチの長身、長い脚、甘い声、そして何より、ただそこに立っているだけで画面の中心になってしまう存在感。石原裕次郎。戦後日本が手にした、最初の本物のスーパースターだった。

彼の登場は、単なる新人俳優の出現ではなかった。鬱屈した戦後の若者たちが、自分たちの代弁者を見つけた瞬間だった。スポーツカーを駆り、ヨットを操り、既成の価値観に縛られない自由な若者像——「太陽族」と呼ばれた新しい世代の象徴として、裕次郎は時代そのものを背負って登場したのである。

俳優、歌手、そして実業家。一人で何役もこなし、そのすべてをサマにしてしまう。生還率3%と言われた大手術から奇跡の復活を遂げ、52歳という早すぎる死の後もなお、彼は語り継がれている。

兄の小説から始まった伝説

石原裕次郎は1934年、兵庫県神戸市に生まれた。父は山下汽船小樽支店長、兄は後に作家・政治家となる石原慎太郎。慶應義塾大学法学部に進むが、芸能界への入り口は意外なところから開いた。

兄・慎太郎の小説『太陽の季節』が映画化される縁から、撮影所内でスカウトに近い形で起用されたのだ。1956年、まずは端役での映画デビュー。しかし同じ年、『狂った果実』で早くも主演を射止め、さらに歌手デビューまで果たす。彼は大学を中退し、日活へと飛び込んだ。才能を見出したのは、日活のプロデューサー・水の江瀧子だった。

嵐を呼ぶ男

デビュー翌年の1957年、裕次郎は一気にスターダムを駆け上がる。『俺は待ってるぜ』『嵐を呼ぶ男』が立て続けに大ヒット。第8回ブルーリボン賞の新人賞を受賞し、その名は日本中に轟いた。

彼の魅力は一つではなかった。歌わせれば甘い声で心をとろけさせ、アクションをやらせればシュッとして男前。ハードボイルドな二枚目でありながら、どこか人懐っこい。「銀座の恋の物語」「夜霧よ今夜も有難う」「ブランデーグラス」といった楽曲は、俳優の余技を超えて昭和歌謡の名曲として残った。1960年には、数多くの作品で共演した女優・北原三枝(後の石原まき子)と結婚している。

自分の城を築く——石原プロモーション

スターであり続けることに満足せず、裕次郎はさらに踏み込んだ。1963年、自らの製作会社・石原プロモーションを設立する。撮りたいものを自分の手で撮る。その第1回作品が『太平洋ひとりぼっち』であり、文化庁芸術祭賞を受賞した。三船敏郎と共同製作した『黒部の太陽』など、彼のプロデューサーとしての挑戦は日本映画の規模を押し広げていった。

やがて活躍の場はテレビへと移る。1972年からの『太陽にほえろ!』では「ボス」藤堂俊介を、1979年からの『西部警察』では大門圭介を演じ、茶の間のヒーローとしても君臨した。俳優として、歌手として、経営者として——彼は決して一つの場所に留まらなかった。

生還率3%からの帰還

1981年、その人生最大のドラマが現実に起きる。『西部警察』のロケ中、裕次郎は解離性大動脈瘤を発症。慶應病院で大手術に臨むが、生還率はわずか3%と言われた。

スクリーンのどんなヒーローよりも過酷な戦いだった。そして彼は、奇跡的に生還する。「奇跡の復活」と日本中が沸いた。台本のないこの実話こそ、彼の映画人生のどの一場面にも負けない、最大のクライマックスだったのかもしれない。

しかし運命は、彼に長い時間を許さなかった。1987年7月17日、石原裕次郎は肝細胞がんにより、52歳でこの世を去る。あまりにも早い別れだった。没後、勲四等旭日小綬章が叙された。

2000年、キネマ旬報の「20世紀の映画スター」企画で、日本男優の第2位に選ばれた。世を去って十年以上が過ぎてなお、その輝きは色褪せなかったのである。スクリーンが彼の方へ傾いた、あの50年代から半世紀以上。石原裕次郎という太陽は、今も昭和という時代を照らし続けている。