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町工場から「経営の神様」へ――稲盛和夫、利他に賭けた90年

稲盛和夫(実業家・経営者)の写真

1959年、京都の片隅にあった小さな会社が産声を上げた。資本金はわずか300万円。社員は二十数名。世間の誰ひとり、この町工場がやがて世界に名を轟かせる京セラになるとは思っていなかった。創業者の名は稲盛和夫。鹿児島から出てきた一人の技術者だった。

彼の人生は、ただの成功譚ではない。京セラを育て、KDDIを生み、破綻した日本航空を蘇らせた。三つの巨大事業を世に送り出した稀有な経営者でありながら、稲盛が生涯をかけて説き続けたのは「儲け方」ではなく「生き方」だった。利他の心、敬天愛人、そして一日一日をど真剣に生きること。経済人でありながら仏門に入った彼の歩みは、いまも多くの経営者の道しるべであり続けている。

鹿児島の少年、技術に出会う

稲盛和夫は1932年1月21日、鹿児島市に生まれた。鹿児島市立西田小学校から鹿児島玉龍高等学校へ進み、地元の鹿児島大学工学部応用化学科で学んだ。決して恵まれたエリートコースではない。1955年に大学を卒業すると、京都の松風工業株式会社に入社する。

入社した会社は経営が傾いており、給料の遅配も珍しくなかったという。しかし若き稲盛は腐らず、ファインセラミックスの研究にのめり込んだ。この松風工業時代に積み上げた研究成果こそが、後に独立・創業への扉を開くことになる。逆境の中で技術と向き合った日々が、彼の経営思想の原点となった。

300万円から始まった京セラ

1959年、稲盛は仲間とともに京都セラミック株式会社(現・京セラ)を創業し、代表取締役社長に就任した。資本金300万円の小さな船出だった。だが彼の技術と情熱は、たちまち成果を生む。1968年には第1回中小企業研究センター賞、1972年には大河内記念生産特賞、1974年には科学技術庁長官賞と、技術と経営の両面で評価を重ねていった。

京セラの躍進を支えたのが、稲盛が編み出した独自の経営手法「アメーバ経営」である。組織を小さな採算単位に分け、全社員が経営者意識を持つこの仕組みは、後に多くの企業が学ぶ経営モデルとなった。「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」という有名な方程式も、この時代に磨かれていった。

通信に挑み、世界に賞を贈る

1984年、稲盛は新たな大勝負に出る。第二電電企画株式会社(現・KDDI)を設立し、当時の通信独占に風穴を開けようとしたのだ。この挑戦は2000年、DDI・KDD・IDOの合併によるKDDI発足へと結実し、稲盛は取締役名誉会長に就いた。

同じ1984年、彼はもう一つの大きな種をまいている。私財を投じて稲盛財団を設立し、国際賞「京都賞」を創設したのだ。科学・技術・思想・芸術の分野で人類に貢献した人々を讃えるこの賞は、いまや世界的な権威となっている。事業で得たものを社会へ還す――利他の心は、ここでも形になっていた。

経営者、僧侶になる

1997年、稲盛は驚くべき道を選ぶ。臨済宗円福寺で得度し、仏門に入ったのである。第一線の経営者が僧侶になるという出来事は、世間を大いに驚かせた。だがそれは奇をてらった行動ではなかった。「世のため人のため」を本気で生きようとした彼にとって、自然な選択だったのだろう。

そして2010年、78歳の稲盛は人生最後の大仕事に挑む。経営破綻した日本航空の代表取締役会長に就任し、その再建を主導したのだ。無報酬同然で引き受けたこの難事業を、彼は意識改革とアメーバ経営の導入で見事に立て直し、2013年に会長を退任した。多くの人が不可能と見たV字回復は、彼の哲学が机上の空論でないことを証明した。

利他という遺産

稲盛は経営者であると同時に、稀代の著述家でもあった。『生き方』『アメーバ経営』『京セラフィロソフィ』など、彼の著書は経営の枠を超えて多くの読者に読み継がれている。語ったのはいつも、技術論や金儲けの方法ではなく、人としてどう生きるかという根本だった。

2019年には鹿児島県初の名誉県民に選ばれ、故郷からも深く敬われた。妻・朝子と1958年に結婚し、三人の娘に恵まれた家庭人でもあった。「経営の神様」と呼ばれながら、彼は最後まで「利他の心」と「ど真剣に生きること」を説き続けた。

2022年8月24日、稲盛和夫は京都市内の自宅で静かに息を引き取った。享年90。町工場の片隅から始まり、世界企業を二つ育て、破綻企業を一つ蘇らせた人生だった。

それほどの成功を収めながら、彼が最後まで語り続けたのは自分の功績ではなく、他者のために生きることの大切さだった。儲け方より生き方を必死で説いた、不器用なほど真っ直ぐな経営者。稲盛和夫が残した「利他の心」という言葉は、これからも多くの人の背中を押し続けるだろう。