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日本の音楽地図を何度も引き直した男――細野晴臣という静かな革命家

細野晴臣(ミュージシャン・音楽プロデューサー)の写真

はっぴいえんどで日本語のロックを成立させ、YMOで世界中にテクノを撒き、そして映画音楽でアカデミー賞を受賞する。細野晴臣という一人の音楽家がたどってきた道は、どれか一つを取り出すだけでも、ふつうなら一生分の仕事になる。

1947年、東京都港区に生まれた細野は、1969年のデビュー以来、半世紀以上にわたって日本の音楽の最前線を歩き続けてきた。しかも彼は、ひとつのスタイルに安住することがない。あるジャンルを切り拓いたかと思えば、飽きたように別の畑へとスタスタ歩いていき、そこでもしれっと先頭を走っている。

そのつかみどころのなさこそが、細野晴臣という存在の核心だ。本稿では、何度も時代を作り直してきたこの静かな革命家の歩みをたどる。

日本語でロックはできるのか――はっぴいえんどの答え

細野晴臣は1947年7月9日、東京都港区に生まれた。港区立白金小学校、青山中学校を経て、立教高等学校、そして立教大学社会学部へと進み、1971年に卒業している。蟹座、A型。学生時代から音楽にのめり込み、1969年にはエイプリル・フールのベーシストとしてメジャーデビューを果たした。

そして1970年、彼は大瀧詠一・松本隆・鈴木茂とともに、はっぴいえんどを結成する。当時、「日本語でロックはできない」という論争が真剣に交わされていた。それに対し、はっぴいえんどは議論ではなく実践で答えてみせた。日本語の言葉とロックのサウンドを違和感なく結びつけ、後の日本語ロックの原型をつくり上げたのである。

はっぴいえんどは1973年に解散するが、その影響は計り知れない。細野はこの時点ですでに、日本の音楽の地図を一度引き直していた。

ソロとティン・パン・アレー――港町から南国へ

はっぴいえんど解散と同じ1973年、細野はソロデビューアルバム「HOSONO HOUSE」を発表する。自宅で録音された、肩の力の抜けた温かい音世界。このアルバムは今なお多くのミュージシャンに愛され続ける名盤となった。同時期にはキャラメル・ママ(後のティン・パン・アレー)を結成し、プロデューサー・ベーシストとしても八面六臂の活躍を見せる。

その後の彼のソロワークは、一所にとどまらない。1975年の「トロピカル・ダンディー」、1978年の「はらいそ」では、エキゾチックでトロピカルな音世界へと軽やかに足を踏み入れていく。流行を追うのではなく、自分の興味のおもむくままに音を旅していく姿勢が、すでにここに表れている。

ベースを弾く彼の手つきは、まるで曲そのものに呼吸をさせているかのようだ。前に出すぎず、しかし全体を支える。その絶妙な距離感が、細野の音楽の心地よさを生んでいる。

YMO――世界に撒かれたテクノの種

1978年、細野は高橋幸宏・坂本龍一とともにイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成する。これが、彼の名を世界に轟かせる契機となった。

シンセサイザーとコンピューターを大胆に取り入れたYMOのテクノポップは、日本にとどまらず世界的なブームを巻き起こした。1979年の「SOLID STATE SURVIVOR」をはじめとする作品群は、新しい時代の音として受け止められ、細野は「テクノポップの父」とも呼ばれるようになる。日本語ロックの先駆者が、今度は電子音楽の最前線に立っていたのである。

YMOは1983年にいったん散開(解散)し、その後1993年には再生(再結成)を果たす。一つの場所に縛られず、必要なときに集まり、また散っていく。そのしなやかさもまた、細野らしさの表れだった。

映画音楽、そして50年の旅路

YMO散開後も、細野の探究は止まらない。1983年にはテイチクへ移籍し、「Non Standard」「Monad」というレーベルを自ら設立。1985年にはアニメ映画「銀河鉄道の夜」のサウンドトラックを手がけ、映像のための音にも才能を発揮した。

その集大成とも言えるのが、2018年、是枝裕和監督の映画「万引き家族」の音楽である。この仕事で細野は第42回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞。デビューから半世紀近くを経てなお、新たな評価を勝ち取り続けるその姿は圧巻だった。2008年には芸術選奨文部科学大臣賞、2021年には2020年度朝日賞も受賞している。

2019年にはデビュー50周年を記念した世界ツアーを敢行。同年にはセルフカバー的な意欲作「HOCHONO HOUSE」も発表し、原点である「HOSONO HOUSE」を半世紀越しに自ら解体・再構築してみせた。

はっぴいえんど、ティン・パン・アレー、YMO、ソロ、そして映画音楽。細野晴臣は、どの畑でもしれっと先頭を走り、飽きればまた別の畑へと歩いていった。普通ならどれか一つで一生メシが食えるような仕事を、彼は何度も繰り返してきたのだ。

しかも本人は、決してえらそうにしない。ボソボソと喋り、絵を描き、ニコニコしながら次の風変わりな音を作っている。肩の力をフッと抜いているのに、出てくる音だけはいつも何歩も先にいる。日本の音楽の地図を、何度もこの人が引き直してきた――そう思うと、ただ静かに頭が下がる。