天が歌だけを授けた少女——美空ひばり、昭和を歌い切った52年

1937年5月29日、横浜市磯子区滝頭。魚屋を営む加藤家に生まれた女の子は、本名を加藤和枝といった。その小さな体に、後に「歌謡界の女王」と呼ばれる声が宿っていたことを、当時誰も知らなかった。
だが、彼女が口を開けば大人たちは黙った。11歳で映画とレコードの両方からデビューし、12歳で国民的スターになり、52歳でこの世を去るまで、美空ひばりは半世紀にわたって日本の歌を歌い続けた。没後、女性として初めて国民栄誉賞を授かったその人生は、ひとつの時代そのものだった。
父の楽団から始まった
戦後間もない1945年、父・加藤増吉が「青空楽団」を立ち上げた。幼い和枝はその舞台で歌い始め、芸名「美空和枝」を名乗る。まだ世の中が焼け跡から立ち上がろうとしていた頃のことだ。
家業は魚屋。芸能の家系ではない。それでも父は娘の声に何かを感じ取り、舞台を用意した。歌う場所を与えられた少女は、その期待にあまりにも見事に応えていく。やがて作曲家・古賀政男がその才能を見出し、激励したことが、彼女を次の段階へと押し上げた。
11歳のデビュー、12歳の頂点
1949年、美空ひばりは映画「踊る竜宮城」に出演すると同時に、「河童ブギウギ」でレコードデビューを果たす。わずか11歳だった。
翌1950年、映画「悲しき口笛」で主演を務めると、その主題歌が45万枚という驚異的なヒットを記録する。子どもがマイクを握り、大人の情感をまるごと歌い上げる——その姿は当時の日本人を震わせた。こうして彼女は、デビューから一年ほどで国民的スターの座に駆け上がったのである。
歌も芝居も、ひとりで背負う
歌手としてだけでなく、彼女は銀幕のスターでもあった。1958年には東映と映画出演の専属契約を結び、時代劇映画に数多く主演する。「東京キッド」「ひばり捕物帳 ふり袖小判」——歌い、演じ、舞う。三味線も舞踊もこなす万能の芸人だった。
「リンゴ追分」「柔」「悲しい酒」。彼女が歌えば、聴く者は理由もなく胸を締めつけられた。1965年には「柔」で第7回日本レコード大賞の大賞を受賞。誰かの真似ではない、節回しも声の出し方も、すべてが「美空ひばり」という唯一無二のジャンルになっていた。
川の流れのように、時代を見送る
晩年、体は決して万全ではなかった。それでも1988年、彼女は「川の流れのように」を世に送り出す。200万枚を超える大ヒットとなったこの曲は、昭和という時代が幕を下ろそうとするその時、まるで時代そのものを静かに見送るかのように響いた。
そして1989年6月24日、特発性間質性肺炎による呼吸不全のため、52歳でこの世を去る。同年、女性として初の国民栄誉賞が没後に贈られた。彼女が遺した最後の名曲は、いまも日本中で歌い継がれている。
天は彼女に、歌う才能だけを盛りに盛って授けたのかもしれない。けれど、その才能を半世紀にわたって磨き、守り、最後の最後まで歌い切ったのは、紛れもなく本人の意志と根性だった。
体がぼろぼろになっても「川の流れのように」をスッと歌い切ってみせた——その一点に、美空ひばりという人の凄みが凝縮されている。昭和という時代をまるごと背負って歌ってくれた歌姫に、私たちはただ手を合わせるしかない。