背中を向けてから、世界を振り向かせた男 ── 野茂英雄、ひとりで開けた太平洋の扉

一度キャッチャーに背を向け、上体をぐるりとひねり、そこから弾けるように白球を投げ込む。あの「トルネード投法」を初めて見た者は、誰もが一瞬「この投げ方で大丈夫なのか」と心配になった。だが次の瞬間、打者のバットは空を切り、観客はどよめいた。
1968年、大阪市港区に生まれた野茂英雄は、日本のプロ野球で頂点を極めた後、誰も信じていなかった道へ単身で踏み出した。海の向こう、メジャーリーグ。そこで彼は新人王を獲り、両リーグでノーヒットノーランを投げ、無口なまま結果だけで世界を黙らせた。
今、日本人選手が当たり前のように太平洋を越えていく。その扉は、この一人の寡黙な大阪の男がこじ開けたものだ。
大阪の工業高校から、いきなりの投手四冠
野茂英雄は大阪府立成城工業高等学校を卒業し、大学には進学しなかった。社会人野球を経て、1988年のドラフトで近鉄バファローズから1位指名を受ける。同じ年、彼はソウルオリンピックに日本代表として出場し、銀メダル獲得に貢献していた。
そして1990年、プロ初年度。彼の成績は新人のものとは思えなかった。18勝を挙げてパ・リーグ最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手四冠を独占。新人王に加えてMVP、さらに沢村栄治賞まで手にした。デビューシーズンでこれほどの賞を総なめにした投手は、そうはいない。あの異形のトルネード投法から繰り出されるフォークボールは、すでに日本の打者たちには手が付けられなかった。
「任意引退」という名の挑戦状
1994年、野茂は近鉄を退団する。形式は「任意引退」だった。だがその真意は、引退ではなくメジャーリーグへの挑戦にあった。
当時、日本人がメジャーで通用するなど、ほとんど誰も信じていなかった。村上雅則が1960年代に渡米して以来、本格的に挑む日本人選手はいなかったのだ。安定した日本での地位を捨て、未知の大リーグへ単身で飛び込む ── それは賭けであり、覚悟だった。彼は多くを語らなかった。ただ、トルネードを抱えて太平洋を渡った。
ドジャースタジアムを揺らした「ノモマニア」
1995年、ロサンゼルス・ドジャースに入団。村上以来2人目の日本人メジャーリーガーとして、彼はマウンドに立った。
結果は劇的だった。13勝6敗、236奪三振。ナショナルリーグの奪三振王に輝き、そしてナショナルリーグ新人王を獲得した。アメリカのメディアは彼の独特のフォームと圧倒的な三振奪取に熱狂し、「ノモマニア」という言葉まで生まれた。日本人選手は通用しない ── その固定観念を、彼は一年でひっくり返してみせた。
両リーグでのノーヒットノーラン
1996年、野茂は「打者天国」と呼ばれる標高の高いクアーズ・フィールドで、メジャーリーグ史上初となるこの球場でのノーヒットノーランを達成した。投手にとって最も不利とされる環境での偉業だった。
さらに2001年、ボストン・レッドソックスの一員として、今度はアメリカンリーグでもノーヒットノーランを成し遂げる。両リーグでノーヒットノーランを投げたのは、大リーグ史上わずか4人目という快挙だった。2003年には日本人投手として初のメジャー通算100勝、2005年には日米通算200勝を達成。記録の上でも、彼は紛れもないパイオニアだった。
寡黙な男が遺したもの
2008年、カンザスシティ・ロイヤルズでの登板を最後に、野茂は現役を退いた。1990年から2008年まで、日米9球団を渡り歩いた長い旅だった。
2014年、日本野球殿堂入り。同年にはベースボール・パイオニア賞も受賞している。引退後はNOMOベースボールクラブを設立し、後進の育成にも力を注ぐ。家庭では1991年に紀久子夫人と結婚し、息子は元・北海道日本ハムファイターズの通訳を務めた。私生活を多く語らない姿勢は、現役時代と変わらない。
野茂英雄は、口数で人を動かすタイプではなかった。彼が語ったのは、いつも三振であり、勝ち星であり、ノーヒットノーランだった。誰も成功を信じなかった時代に、たった一人で「行ってきます」と太平洋を渡った度胸 ── それこそが、彼の最大の偉業かもしれない。
今、多くの日本人選手が海を越えてメジャーで輝いている。その全員が、この寡黙な大阪の男が一人でこじ開けた扉を通り抜けている。背中を向けてから振り向かせる ── 野茂英雄は、文字通り世界を振り向かせた男だった。