ニコッと笑わせるために——宮本茂、遊び心を捨てなかった「ゲームの神様」

「ゲームの神様」と呼ばれる人がいる。世界中の子どもがコントローラーを握り、夢中で土管に飛び込み、剣を手に洞窟へ踏み込んだ。その入口を設計したのが、京都の小さな町に生まれた一人の工業デザイナーだった。
宮本茂。1952年、京都府船井郡園部町(現・南丹市)に生まれた彼は、もともとゲームを作るために任天堂へ入ったわけではない。金沢美術工芸大学で工業デザインを学び、1977年に「絵を描く仕事ができるかもしれない」と入社した一人の若者だった。それが気づけば、マリオを、ゼルダを、ピクミンを生み出し、ビデオゲームという表現の文法そのものを書き換えていく。
彼の出発点も到達点も、たった一つの問いだった——どうすれば、遊ぶ人がニコッと笑ってくれるか。
工業デザイナーとして始まった道
宮本茂が任天堂に入社したのは1977年。当時の任天堂はまだ花札やおもちゃを作る会社で、ビデオゲームの巨人になるなど誰も想像していなかった。彼の肩書きは工業デザイナー。製品の見た目や形をデザインする仕事である。
転機は1981年に訪れる。アーケードゲーム『ドンキーコング』のデザインとディレクションを任されたのだ。樽を投げる大きなゴリラ、捕らわれた女性、それを助けに向かう小柄な男——後にマリオとなるこのキャラクターを軸に、宮本はゲームに初めて明確な「ストーリー」を持ち込んだ。点を取るだけの遊びだったゲームに、物語の入口が開いた瞬間だった。
世界を変えた配管工と剣士
1985年、宮本がディレクションした『スーパーマリオブラザーズ』が登場する。全世界で4000万本を超える歴史的なヒットを記録し、横スクロールアクションという遊びを世界の常識に押し上げた。土管、キノコ、ジャンプの爽快感。そのすべてが、ただ「触っていて気持ちいい」を突き詰めた結果だった。
翌1986年には『ゼルダの伝説』を世に送り出す。広大な世界を自由に探索し、謎を解き、少しずつ強くなっていく。アクションロールプレイングゲームの先駆けとして、これもまた大ヒットとなった。マリオとゼルダ——性格のまったく異なる二つの傑作を、宮本はほぼ同時期に生み出してみせた。
日常からゲームが生まれる
宮本の発想の源は、いつも自分の日常にあった。ギターを弾き、スキーをし、絵を描く。庭をいじり、犬と過ごす。そうした個人的なワクワクが、そのままソフトに姿を変えていった。
庭の手入れや自然観察から生まれたのが2001年の『ピクミン』。飼い犬とのふれあいが2005年の『nintendogs』に。さらにWiiの時代には、体を動かす楽しさを『Wii Sports』に、健康への関心を『Wii Fit』に変えた。誰もが見過ごす身の回りの感覚を、彼は遊びとして掬い上げてみせた。「アイデアというのは複数の問題を一気に解決するものである」——彼のこの言葉どおりに。
神様と呼ばれてなお
評価は世界中から押し寄せた。2007年にはGDC生涯功労賞、2010年には英国映画テレビ芸術アカデミーのフェローシップ賞をゲーム業界史上3人目・アジア初として受賞。2012年にはアストゥリアス皇太子賞をゲーム業界として初めて手にした。そして2019年、ゲーム関係者として史上初めて文化功労者に選ばれる。
経営者としての道も歩んだ。2002年に代表取締役専務、2015年には盟友・岩田聡社長の急逝を受けてクリエイティブフェローに、翌年には代表取締役フェローに就任。会社を支える立場になってもなお、彼はクリエイターであり続けた。2023年公開の『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』ではプロデューサーとして、自らの生んだキャラクターを再び世界へ送り出している。
これだけの栄誉を手にしながら、宮本茂が手放さなかったものが一つだけある。遊び心だ。何十年もトップを走り続けてなお、彼が真顔で考え続けているのは「どうすればお客さんが笑ってくれるか」という、ただそれだけの問いである。
工業デザイナーとして入った青年が、世界中の人生に「楽しかった記憶」を刻んだ。その純粋さこそが、彼が「ゲームの神様」と呼ばれる本当の理由なのだろう。