天才子役から昭和の大女優へ――高峰秀子、隙のない五十年

そしてその五十年は、女優としてだけでは終わらなかった。引退後、彼女は筆をとり、エッセイストとしてもまた一流の評価を勝ち取ることになる。
学校に通えなかった天才子役
1929年、5歳の秀子は松竹蒲田撮影所の映画『母』に子役として出演し、映画デビューを飾った。撮影所を見学する機会を得たのち、野村監督作品の子役オーディションに飛び入りで参加して合格したという。運と才能が交差した瞬間だった。
ただ、その代償もあった。多忙のため、彼女は小学校にほとんど通うことができなかった。1937年、東宝(当時のP.C.L.)への移籍の際には、出演の条件として女学校・文化学院への進学を求めたが、やはり多忙のため約1年半で退学している。学業の機会を犠牲にしてまで、彼女は幼い頃から銀幕の世界に生きていた。
フリーへの転身、そして日本初のカラー映画
松竹、東宝、新東宝と渡り歩いた高峰秀子は、1950年にフリーの俳優となる。専属契約が当然だった時代に、自らの足で立つ道を選んだのである。その前年の1949年には映画『銀座カンカン娘』に出演し、彼女が歌った主題歌は50万枚を売り上げる大ヒットとなった。女優でありながら歌でも時代を彩った。
そして1951年、彼女は日本映画史に残る一作に主演する。日本初の総天然色映画、すなわちカラー映画『カルメン故郷に帰る』である。白黒からカラーへと移りゆく映画の歴史のまさにその転換点に、彼女は主役として立っていた。
『二十四の瞳』と『浮雲』――頂点の二作
高峰秀子の名を不動のものにしたのが、1954年、木下惠介監督の『二十四の瞳』である。小豆島の小さな分教場の女性教師・大石先生を演じた彼女は、戦争に翻弄される教え子たちを見守る姿で、観る者の涙を誘った。この作品でブルーリボン賞主演女優賞と毎日映画コンクール女優主演賞を受賞している。
翌1955年には、成瀬巳喜男監督の『浮雲』で幸田ゆき子を演じた。報われぬ愛に身を沈めていく女のしっとりとした色気と哀しみは、彼女の演技の到達点のひとつとされる。そしてこの年の3月、彼女は映画監督の松山善三と結婚した。
台詞なき演技――全篇手話の挑戦
高峰秀子の演技の凄みを語るなら、1961年の『名もなく貧しく美しく』を外すことはできない。これは夫・松山善三の監督デビュー作であり、彼女は全篇を通して手話で演じるという難役に挑んだ。
台詞という最大の武器を封じ、手と表情だけで心の機微のすべてを伝える。これほど厳しい挑戦を、彼女は見事にやり遂げた。この作品とその後の『永遠の人』により、1962年には芸術選奨文部大臣賞を受賞。さらに1965年には『怪談』でロカルノ国際映画祭最優秀女優賞を得て、その名は国際的にも知られることとなった。
引退、そしてもう一つの才能
1979年、『衝動殺人 息子よ』を最後に、高峰秀子は自らの意志で女優を引退した。退き際もまた、彼女らしく潔いものだった。
だが、彼女の才能は演技だけにとどまらなかった。1976年、自伝的エッセイ集『わたしの渡世日記』で第24回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。骨董品を集め、絵を愛し、文章を綴る――女優としてのみならず、一人の表現者として、彼女は静かに豊かな後半生を生きた。2010年12月28日、東京都内の病院で86年の生涯を閉じた。
5歳で銀幕に立ち、学校にもろくに通えぬまま天才子役と呼ばれ、そのまま昭和を代表する大女優へ。日本初のカラー映画に主演し、台詞なしで一本を演じきり、引退後はエッセイで賞まで獲る。どこを切り取っても、隙がない。
派手さで押すのではなく、確かな実力と品格で五十年を貫いた。高峰秀子――それはまぎれもなく、本物の昭和のスターであった。